沿革

1940-50年代

第2次世界大戦後の疲弊した日本。戦後の食糧不足は深刻なものでした。特に都市部では配給も止まり、人々は食糧をもとめて闇市に集まっていました。苦しい時代を抜け1950年代になると、国民の消費が増えはじめ、食生活にもだんだんと欧米の影響がでてきました。

1942年

ニチレイの前身 帝国水産統制がつくられる

第2次世界大戦の間の必要な食料を管理するため、日本政府は水産会社を集めて、帝国水産統制株式会社(現ニチレイ)をつくり、日本の水産資源をその管理下におきました。

ニチレイと聞いて何を思い浮かべますか?

冷凍食品やアセロラといったところでしょうか。でも、最初は戦争中に食料を提供していた水産会社でした。

ニチレイの歴史は1942年に誕生した「帝国水産統制株式会社」からスタートします。なんとも重々しい名前ですが、それも当然で1942年といえば、第2次世界大戦の真っ最中。「腹が減っては戦はできぬ」ではありませんが、やはり食べ物の確保は重要な問題でした。そこで、国が食料を管理するため、水産会社を集めて帝国水産を作りました。

ところが、日本が敗戦し、帝国水産はわずか3年足らずで歴史に幕を閉じてしまいます。

1943年

漁業会社の統制、製氷・冷蔵・凍結、水産の各事業を開始

1945年

民営会社 日本冷蔵として再スタート

戦争によって大きな被害をうけた帝国水産ですが、敗戦後の食料不足をなんとかしたいという想いのもと、国策会社から民間の企業となり、再スタートをきることになります。

敗戦後の混乱期。食料は十分にありません。日本にとって、戦災をのがれて残された工場や食品の加工施設は水産物や生鮮食品を国民に提供する、いわば命綱のようなものでした。

「このままでは、日本は食料難で苦しむことになってしまう。会社を民間企業として存続させ、国民に食料を届けなければ…!」

帝国水産は「日本冷蔵株式会社」として生まれ変わります。新会社としてスタートした日本冷蔵は、戦後の混乱期を乗り切り、企業の再建・整備を果たしていきます。もちろん、その道のりは平坦ではありませんでした。このとき会社の再建に力を尽くしたのが日本冷蔵の第2代社長木村鑛二郎でした。

「冷凍事業だけではうちの会社は成功できない。漁業に食品加工に、缶詰、冷凍食品。有望な事業はどんどんやれ。」

木村が目指したのは「冷力を基盤とした総合食品事業」、つまり事業の多角化でした。ニチレイは、戦後まもないこの時代に大胆な理念を掲げていました。この木村が打ち出した総合食品事業の道は、のちに大きく実を結び、なかでも冷凍食品事業は、冷蔵事業とともに国内トップシェアへと成長を遂げていくのです。

消費ブームと同時に、事業を拡大

戦後の傷も癒え国民の消費が増える中で、魚や肉などの需要が増えていき、日本冷蔵はそれをチャンスとして食品や冷蔵・水産事業に加え、畜産事業や加工食品事業をどんどん大きくしていきました。

1946年

果汁入りアイスキャンディ「レイカ」を発売

今となっては、ニチレイの中核事業にまで成長した冷凍食品事業。しかし、ここまでたどり着くにはいくつもの苦難がありました。

ニチレイの冷凍食品のはじまりは、戦後間もないころ駅売りを中心に全国で販売されていた、果汁入りアイスキャンディ「レイカ(冷果)」でした。

そして、本格的に冷凍食品事業を始めたのはその5年後。イチゴやミカンなどを凍らせた「冷凍果実」を試験的に生産しました。冷凍ミカンといえば、学校給食のデザートで馴染みが深い人も多いのではないでしょうか?けれども、それに比べて、冷凍イチゴはあまり知られていませんよね。冷凍ミカンだけでなく、冷凍イチゴのおいしさも知ってもらいたい。そんな想いが当時、ありました。

「なんとか冷凍イチゴを軌道に載せたい。冷凍イチゴを使った商品はできないものか。」

そんなとき、都内の学校のバザーに出店する機会が訪れます。そこで、ためしに冷凍果実をジュースにして販売したところ、これが大変好評でした。「よし。これならいけるはずだ」と確信し、デパートでミカン・夏ミカンジュースと一緒に「日冷凍果ジュース」として販売しました。

結果は予想以上で、他のデパートからもつぎつぎと出店依頼を受け、あっという間に大ヒット!

こうして「冷凍イチゴ」から「日冷凍果ジュース」に姿を変えて、広く世の中に知れ渡るようになりました。冷凍食品のルーツは、意外にも冷凍果実だったんです。

1952年

冷凍天ぷらセットの発売

1954年

冷凍茶碗むしの発売

ニチレイはもともと冷凍魚の取扱いや氷の製造などを事業としていたので、調理冷凍食品の開発は、冷力に根ざした会社の食品加工事業として進められました。そのなかでも冷凍茶碗むしは調理冷凍食品の先駆けともいえる商品です。茶碗むしを一から作ろうとすると、少量多種の具材を用意するなど手間ひまがかかります。この冷凍茶碗むしは、卵と出汁を混ぜたものに下ごしらえした具材(鶏肉、ぎんなん、みつばetc)をいれて小分け袋に詰めたものです。解凍後、蒸し調理をする必要があり、現代の感覚からするとまだまだ煩雑さを感じるかもしれませんが、電子レンジなどがなかった当時は、袋から器に移し替えて蒸すだけで完成するという画期的な商品だったのです。

1955年

水産物の洋上輸出開始

1956年

畜産事業開始

1956年

南極観測隊に冷凍食材を提供

マイナス40度を越える極寒の地、南極での食事とはどんなものでしょうか?

日本がはじめて南極観測をおこなったのは、今から50年以上も前のこと。その初代観測船「宗谷」には、あの感動の生還劇を演じたタロとジロも乗っていました。

さて、南極までの船旅は長期間にわたるため、長持ちする食品が必要になります。また、南極には水が十分にないため、手間ひまをかけた食事を作ることはできません。昭和基地で冬を越すには、新鮮で手軽な食品が必要なのです。それに加えて、南極大陸は地球上の天然の冷蔵庫のような場所。長時間、新鮮さを保って、手軽に食べられるもの…。

そう、冷凍食材です!実は南極観測隊の食事を支えていたのは冷凍食材だったのです。日本冷蔵は、冷凍野菜や茶碗蒸しをはじめとする69種、約20トンの冷凍食材を南極越冬隊に提供しました。栄養価をそのまま冷凍保存できる冷凍野菜などは、隊員の健康を守る大切な役割を果たしたというわけです。

南極越冬隊にとって、隊員の食料に欠かすことのできない冷凍食材はとても馴染み深いものだったのです。

家庭向け冷凍食品をひろめる

当時、学校の給食など団体向けに使われているのがほとんどだった冷凍食品を一般の家庭にもひろめよう!と、デパートで冷凍食品の試食コーナーを設けたり、展示会をひらいたりしていました。

冷凍食品の分野でさまざまなヒット商品を生み出してきたニチレイ。 家庭向け冷凍食品の開発にはさまざまなドラマがありました。

当時、家庭向け冷凍食品をつくり、広めていく最大のネックは、工場から家までいかに凍ったまま運ぶかということでした。冷凍食品を運んだり店に並べたりするには冷蔵運搬車やフリーザーが不可欠で、家庭で保存するには電気冷蔵庫が必要です。ところが当時はそうした条件を整えることからはじめなければならなかったのです。

社員たちは、身近ではなかった冷凍食品を知ってもらうために、百貨店に売り場を作ったり、イベントを企画したりして普及宣伝につとめました。お店には、冷凍ストッカーをおいてもらうとことからはじめました。電気メーカーには、冷凍冷蔵庫を開発してもらうように頼んで回りました。

そして冷凍食品の商品開発も積極的に行われ、その結果、冷凍コロッケのような人気商品も誕生しました。

1959年

長距離冷凍トラックを開発

当時、冷凍食品の長距離輸送といえば、ほとんどが冷蔵貨車による鉄道輸送か、冷蔵船による海上輸送でした。近距離・短時間の場合は、氷やドライアイスを詰めた保冷車やコンテナバッグなどで対応していました。

そのような状況において、ニチレイは1959年に、東京から九州までの輸送を可能にする冷凍トラックを自社開発しました。「はやぶさ」と名付けられた第一号車は、冷蔵室と冷却装置が設置され、最大積載量は3トン、冷凍室の保持温度はマイナス20℃からマイナス23℃でした。「冷凍食品」という大きな文字が躍る車体は、道行く人々の目を引き、冷凍食品の認知度アップやイメージアップにも一役買いました。

1960~70年代

このころ、日本は高度経済成長とよばれる大きな発展の時代をむかえ、「三種の神器」といわれたテレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電製品が家庭に広まっていきました。しかし、1973年のオイルショックで日本の発展は停滞してしまいます。

愛されるニチレイブランド

1959年から1985年まで、日本冷蔵の商品ブランドにはすべて星印の「日冷スター」を使用し、明るく清潔で親しみがあり消費者に愛されるブランドになるよう、積極的に宣伝していきました。

1960年

農畜産品の研究のため、鎌ヶ谷試験所を開設(回転鶏舎を設置)

1960年代 冷蔵庫と一緒に、冷凍食品が普及

1960年代になると、冷凍庫付き冷蔵庫が一般の家庭に普及しだしました。その影響で、このころからようやく家庭向けの冷凍食品が受け入れられはじめました。

1964年

東京オリンピックに貢献

選手村へ多種多彩な冷凍食材を大量に供給

1964年、東京オリンピックが開催され、日本中が興奮しました。

日本だけでなく、世界が注目するオリンピック。ただのスポーツの祭典というわけではなく、日本の戦後復興を世界にアピールするという意味もありました。

ところが、そこには大きな問題がありました。選手村での食事です。オリンピックには、食習慣が異なる90カ国以上の国々から5000人以上の選手が出場します。この選手たちの食事は、開催国の料理人が作るのが普通でした。つまり、世界中の料理を日本で提供しなければならなかったのです。

今でこそ、日本はグルメ大国ですが、戦後間もないこの時代、日本の外食産業はまだ発展途上…。この日本の料理界の命運を担う戦いに立ち向かったのが、一流ホテルのシェフたちでした。ところが、問題は料理の種類だけではありませんでした。オリンピックに出場する選手は5000人以上、会場に訪れる人の数も考えると、膨大な量の食材が必要となります。一度に生鮮品で揃えようとすれば、東京の物価高騰を招いてしまいます。

それを解決する唯一の方法は冷凍食材を使うことでした。当時、「冷凍食材を使うと料理の味が落ちる」という考えが普通でしたが、日本の料理界の威信がかかっているこのオリンピックで、料理に妥協は許されません。料理人たちは、冷凍食材の調理法を研究し、日夜、懸命な努力を重ねました。食材の備蓄は相場に影響を与えないように少しずつ進められました。

こうした努力の結果、多種多彩な料理を選手たちに無事ふるまうことができました。そしてこのオリンピックをきっかけに、冷凍食品は一気に知名度を上げます。それまでは、冷凍食品といえば業務用で、家庭向けの冷凍食品はほとんど知られていませんでしたが、一流のシェフたちが味や調理法などを研究した冷凍食品が生まれるようになったのです。そして、早くもこの頃から、いまでは定番のエビフライやハンバーグ、コロッケなどの冷凍食品も商品化されたのでした。

1970年

日本万国博覧会(大阪)に食堂「テラス日冷」を出店

1970年、「人類の進化と調和」をテーマに大阪で万国博覧会が開催されました。

日本冷蔵は、パビリオンの運営のほかに、冷凍食品を中心とした料理を販売する食堂や売店を運営しました。とくに、食堂「テラス日冷」では衛生的で品質にムラのない食品を迅速に提供し、訪れた人にたいへん好評でした。

それまでの冷凍食品のイメージは、戦時中の配給で出されていた冷凍魚の印象が強く、「冷凍食品はおいしくない!」というのが一般的でした。ところが、大阪万博で冷凍食品の優れた品質や調理技術を見て、冷凍食品のイメージが徐々に変わっていったのです。

また、ファミリーレストランなど外食産業の発展に伴って、業務用分野では冷凍食品はなくてはならないものとして広く使われるようになりました。

1974年

家庭用冷凍食品のシリーズ化「グリーンベルト」ブランドを展開

1980~90年代

社会に出て働く女性が増え、その影響で食事を外食したり買って食べるという「食の外部化」が進みました。ファストフードやコンビニエンスストアの店舗がチェーン展開し、人々のあいだに定着しだしたのはこの頃でした。そして、手軽に食べられる冷凍食品の快進撃が始まったのもこの時代です。

1980年 危機を乗り切れ!社内キャンペーン

ニチレイの歴史は順風満帆の時代ばかりではありません。

勢いに翳りが見えはじめたのは1970年代後半。オイルショック後の所得の伸び悩み、人口の増加率の低下、日本人のカロリー摂取量の頭打ち…。これらの原因により、水産・畜産、食品などの事業の伸びが明らかに低下してきました。なかでも、戦後一貫して伸び続けてきたカロリー摂取量の頭打ちはニチレイにとって相当な痛手でした。

ニチレイは大きな曲がり角に立たされました。

当時の社長、浅原英夫は思いきって発想の転換をしないと駄目だということを認識していました。浅原だけではありません。3,000人以上の社員も、「このままでは駄目だ」「この会社には何かもっと期待できる可能性があるはずだ」というもどかしさを感じていました。この経営危機と落ち込んだムードを打開すべく、浅原は、改革を起こそうと考えました。

「トップダウン方式でビジョンを提示してもだめだ。ここはひとつ、みんなの意見を聞いてみよう!」

八方塞がりの経営危機をのりきるため、社員全員から将来のニチレイについて意見を募集する社内キャンペーン「明日のニチレイ」を実施。その意見をもとに、新しい経営計画を立てはじめます。

1982年

バイオテクノロジー分野へ進出

1985年

株式会社ニチレイに社名変更

新しい企業コンセプト「心の満足」というキーワードのもとに、社名をニチレイに、シンボルマークを「N」に変更、企業イメージを一新して、気持ち新たにスタートをきりました。

1988年



アセロラドリンク190g缶発売

アセロラドリンクの誕生

1987年から発売したアセロラドリンク。

このアセロラドリンクの誕生にも、さまざまな苦労があったようです。

事の発端は「明日のニチレイ」キャンペーンで、新規分野の開拓が決まったときでした。キャンペーンを推進していた金田幸三がゲキをとばします。

「いまのニチレイにない事業でみんなが興味を持てるような分野を探せ。一人ひとりがそこの社長になるつもりでやれ。」

当時のニチレイには、ある課題がありました。それは、ブランドの知名度が低いことでした。商品がお惣菜的なものばかりで、台所やレストランの調理場で開封されてしまうので、食卓までブランドが届かないのです。

「ニチレイブランドを食卓に届けるには、どんな商品がいいのだろうか」

そんなことを考えているとき、ニチレイの中南米事業部からたくさんのフルーツが送られてきました。捕鯨禁止によって、鯨に代わる日本にない珍しいフルーツを片っ端から送ってもらうように頼んでいたのです。香りがいいもの、珍しい味のものがたくさん届けられました。開発メンバーは、そのなかから、さくらんぼに似たフルーツに注目しました。話を聞くと、天然のビタミンCがレモンの30倍もあるというのです。

「これはもしかしたら奇跡の果実かもしれない」

すぐさま中南米からアセロラを買い付け、ゼリー、ジャム、フルーツソース、バーモントの4種類を、都内の有名果物店で試験的に販売しました。美容・健康をキャッチフレーズに高級嗜好品として売り出したところ、予想以上の反響がありました。ゼリーなどで成功をおさめたアセロラは、ついに待望の飲料分野へと進出。

「女性の美容と健康づくりのためのおしゃれなドリンク、このコンセプトでいくか!」

こうしてニチレイブランドとして展開するアセロラドリンクが発売されたのです。

※2009年にアセロラ飲料事業はサントリー食品(現・サントリー食品インターナショナル)に事業譲渡しました。現在でもニチレイが調達したアセロラ原料を使用し、「ニチレイアセロラドリンク」として販売されています。

1988年

欧州で低温物流事業開始

低温物流の海外事業は、インフラが整っていたヨーロッパからスタートしました。オランダの冷蔵倉庫会社の買収を皮切りに、ドイツ(1989年~)、ポーランド(2004年~)、フランス(2010年~)とエリアを拡大していきました。

1993年

通過型物流センター(TC)事業を本格的に開始

冷凍食品、大活躍!

1990年代になると、食事は外食や出来合いのお弁当などで済ませる人が増えました。そんな背景もあり、ニチレイの商品は毎年ヒットを飛ばすようなったのです。

1994年

電子レンジ対応冷凍食品の先駆け「新・レンジ生活®」発売

今では常識となった、レンジでチンするだけという手軽な電子レンジ対応の冷凍食品。

電子レンジ対応のコロッケができたのも、「明日のニチレイ」キャンペーンがきっかけでした。社長の金田から「他社が真似できない新型商品を作れ」という指示が出たのです。

それまでにも冷凍コロッケは油で揚げるタイプのものがありましたが、発売当時の勢いはなく、売り上げが伸び悩んでいました。そこで新型冷凍コロッケの開発が始まったのです。

最初に取りかかったのは、冷凍コロッケが売れない原因を特定することでした。さまざまな調査を重ね、調査結果をまとめていくうちに、あることに気づきます。

子供を持つ若い主婦層は「コロッケがおいしいのは揚げたて、だけど油を使って揚げ物をするのは面倒」という意見がほとんどだったのです。「油を使わずに揚げたての味を味わえるコロッケを作れないだろうか。」

これを実現するには、とんでもない難題がありました。一度揚げたコロッケを再加熱するとき、電子レンジだと中の水分がパン粉に移り、コロッケ特有の軽快な食感がなくなってしまうのです。これは、冷凍食品の特性を理解している人にとって常識的なものです。ところが、ニチレイはあきらめません。さまざまメーカーの電子レンジを30台もそろえて、数え切れない試作品を作り続けました。

苦労はついに実を結びました。新商品は大ヒット商品に変身しました。売り上げだけではありません。冷めた料理を温めるだけだった電子レンジが、いつでも簡単に調理できる便利さによって日本に爆発的に広まったのです。

「新・レンジ生活」シリーズの開発は、冷凍食品の歴史を変える一大事件でした。

2000年~現在

少子高齢化や女性の社会進出はますます進み、単身世帯やシニア世帯が増加するなどライフスタイルが変容しており、それにあわせて食生活のありかたも多様化してきています。また、食に関するさまざまな問題をきっかけに、生活者が食品の安全性に強い関心を寄せるようになりました。

2000年

品質保証の強化

2000年ころ、中国産冷凍野菜についての残留農薬を危惧する声が高まりました。ニチレイはこれまでも現地の集荷業者を通じて安全管理を行ってきましたが、栽培方法や農薬管理、トレーサビリティシステムの構築などを抜本的に見直し、より安全で信頼していただける商品を提供できるような仕組みを作り上げました。現在では中国に設立した合弁会社が品質検査を担当し、ニチレイ基準を順守できる実力を持った集荷業者からしか調達しないようになっています。食の安全についてその後も様々な懸念が浮かび上がっていますが、重要項目として日々、品質保証力の強化に取り組んでいます。

2001年

家庭用冷凍食品「本格炒め炒飯®」発売

2000年以前、家庭用の冷凍炒飯商品といえば「中華風混ぜご飯」が主流でした。大量のご飯をおいしく炒める、というのは、実はかなりハードルが高い技術だったのです。しかし、やはり「炒飯」というからには、ちゃんと炒めたい。1990年代の終わり頃、ニチレイフーズの開発チームは、「本格的な炒飯がつくりたい!」という強い思いで、冷凍炒飯の開発を始めました。

開発チームが着目したのは「プロの技」。プロの中華料理人がつくる炒飯はなぜ、パラッとしていておいしいのかを徹底的に研究し、その秘密は「卵のコーティング」にあると考えました。

左の写真は、「本格炒め炒飯®」の米粒を拡大したものです。米の周りを覆っている黄色は卵の層。この卵コーティングによって米粒同士がくっつかず、米の中に油にしみこんでベタつくのを防いでいるのです。プロの手順をほぼ忠実に再現した生産ラインを構築することで、「本格」的な味を目指しました。

約4年の歳月をかけて2001年に誕生した「本格炒め炒飯®」は、米飯製品の生産が多い船橋工場の中でも、発売から現在に至るまで売上ナンバーワンを誇る人気商品となったのです。

2004年

中国での低温物流事業スタート

2005年

持株会社体制へ移行

社会や経済面で大きな変化が生じるなか、各事業領域において意思決定や環境適応の迅速化が求められるようになりました。そこで、グループ全体戦略を担う持株会社(ニチレイ)と、加工食品(ニチレイフーズ)、低温物流(ニチレイロジグループ)、水産・畜産(ニチレイフレッシュ)、バイオサイエンス(ニチレイバイオサイエンス)、シェアードサービス(ニチレイプロサーヴ ※2013年ニチレイに吸収合併)の事業を担う5つの事業会社からなる持株会社体制へ移行しました。

2007年

直営の養鶏場設立
岩手県洋野町で「純和鶏®」養鶏開始

日本の食料自給率は、カロリーベースで約4割。鶏肉は一見、自給率が高いのですが、国産鶏の親鳥(種鶏)やその親鶏(原種鶏)の大半をイギリスやフランスなど海外からの輸入に頼っています。もし種鶏や原種鶏の調達先である国々で鳥インフルエンザなどが発生し、一時的にでも輸入が停止した場合、日本の鶏肉生産は大きな影響を受ける可能性があります。こうした中、ニチレイフレッシュは、原種の段階からすべて日本国内で育種改良されている「純和鶏®」という新しいブランド鶏の養鶏を開始します。海外に依存していないという利点のみならず、長めの飼育期間による濃いうま味、鶏糞を肥料にした飼料米の活用、受入れ時から出荷に至るまでの養鶏記録(トレーサビリティ)などニチレイフレッシュのこだわりが凝縮した自慢の商品です。

「おいしい瞬間を届けたい」というDNAのもと、2011年の東日本大震災も乗り越え、岩手県の北東部、洋野町で大切に育てた純和鶏®を皆様にお届けしています。

2008年

タイにチキン加工品のフルインテグレーション工場設立

ニチレイフーズは、チキン加工品の需要拡大に伴い、タイにチキン加工品の生産工場(GFPTニチレイ)を設立しました。GFPTニチレイでは、原料としての生鳥処理から製品製造まで一貫した生産体制を構築しています。日本(ニチレイフーズ)への輸出だけでなく、タイ国内販売や欧州への輸出を行っており、2020年には第2工場を増設するなど規模を拡大しています。

2011年

高機能大型冷蔵倉庫の新設
免震対応などの先進技術を業界に先駆けて導入

ニチレイロジグループは2011年に東扇島物流センター(川崎市)を新設しました。当センターは、保管や輸配送のみならず、解凍作業やリパック作業などにも対応しており、ワンストップの低温物流サービスを提供することができます。また業界に先駆けて免震対応などの先進技術を導入しており、安全面にも配慮したセンターとなっております。2013年には第2期棟を増設し、約8万トンの保管能力を有しています。

2012年

北米事業でのアジアンフード事業スタート

ニチレイフーズはアメリカのイノバジアンクイジーン社を2012年に買収し、北米事業を展開しています。アジアンフード※を中心に現地での販売を順調に伸ばしております。※中華、エスニックなどアジア圏の料理を総称した食品カテゴリー

2013年

タイで低温物流事業開始

ニチレイロジグループは、SCGロジスティクスマネジメント社と合弁でSCGニチレイロジスティクス社を設立。2021年には第2期棟を増設し、規模を拡大しています。また、2018年にマレーシアにも進出しており、東南アジアでの低温物流事業の展開を加速させています。

2019年

バイオサイエンス事業の研究開発・生産拠点を新設

ニチレイバイオサイエンスは、研究開発および生産力強化を目的に埼玉県狭山市にグローバルイノベーションセンターを新設いたしました。がんやインフルエンザの診断薬などを製造しており、食だけでなく、医薬品の分野でも生活者のみなさまの健康を支えております。