氷と暮らしの物語 <第5回> 製氷業界を再編した和合英太郎

人々の衛生意識の高まりを受け、冷蔵保存用として氷の需要は増加。全国各地に、たくさんの製氷会社が設立されます。
しかし、激化する販売競争に製氷会社は疲弊し、業績は次第に悪化していきます。
第5回は、混とんとしていた初期の製氷業界をまとめ上げ、健全な発展に尽力した、「製氷業界のドン」こと和合英太郎(わごうえいたろう)の功績を記します。

衛生意識の高まり

「人工氷は有害なもの」という風評被害を払拭して、天然氷のシェアを抜き返した人工氷。当初は飲料用として普及しましたが、1897年に感染症のコレラと赤痢が流行し、人々の衛生に対する意識が高まったことが転換点となります。市場では、肉や魚、野菜など生鮮食品の腐敗や病原菌の繁殖を防ぐため、冷蔵保存用に氷が使用されるようになり、さらに明治時代後半から都市部の裕福な家庭を中心に、氷を入れて冷やす冷蔵庫 (以下、氷冷蔵庫)が普及し始めたことで、氷の需要は増加。1914年度は約32万トンだった生産数量は、1925年度には約127万トンと、およそ10年で4倍になりました。
しかし、旺盛な需要に応えるかたちで、製氷会社が全国各地に乱立すると、激しい商戦が展開されるようになります。価格競争で苦境に陥る会社が現れるなど、製氷業界は疲弊し、混とんとした状況に陥ってしまいます。このような状況を打開して、製氷業界を統一することでさらなる発展をもたらすために立ち上がったのが、和合英太郎です。

※『日本冷凍協会誌』2巻19号(日本冷凍協会)をもとに作成。

機械製氷を設立

和合英太郎は1890年、渋沢栄一や浅野総一郎など、財界のそうそうたるメンバーが株主として名を連ねる青山製氷所が設立されると同時に入社。事務と工場監督を兼務しました。しかし、経営状態はかんばしいとは言えず、1892年3月には廃業となってしまいます。
1897年、日本の採氷業のパイオニアである中川嘉兵衛らが、東京・本所に機械製氷を設立。同年に亡くなった嘉兵衛の後を継ぎ、息子の佐兵衛が社長に就任しました。青山製氷所で働いた経験から、製氷業に関心を示すようになった英太郎も、発起人のひとりとして参画。製氷工場の支配人兼技術師となりました。
機械製氷は、同じ東京を拠点とする東京製氷と共存共栄を図るため、1907年に合併。新会社・日本製氷が誕生します。設立当初は佐兵衛が社長を務めていましたが、09年には英太郎に交代しました。

「製氷業界のドン」に

英太郎は「製氷業者同士の過当競争は不利益をもたらす」との信念から、全国の大小さまざまな製氷会社を買収・合併していきます。1919年には最大のライバルだった東洋製氷と合併し、新会社・日東製氷を設立。28年には、関西を拠点とする老舗・龍紋氷室と合併。これを機に、社名を大日本製氷と改称し、社長には英太郎が就任しました。
「西の氷王」と称される龍紋氷室社長の山田啓介は、英太郎率いる日東製氷による業界再編に強く抵抗したとされていますが、最終的には「二重投資および両社対立の不利をさけて、会社の健全な発展と株式社員の一層の幸福のため」に決断。この合併が実現して、名実ともに「製氷業界のドン」となった英太郎の喜びは、ひとしおだったようです。
英太郎が1933年に病気で社長を辞任するまでに合併した会社の数は80、出資した会社の数は60におよびます。製氷事業を通じて、食や衛生などの分野の発展に貢献した英太郎はその功績が称えられ、39年の死後、従六位に叙せられました。

今も健在!氷冷蔵庫の魅力に迫る

庫内には1個約16㎏の氷の塊が8個敷き詰められており、
毎朝、半分を新しいものと交換している。

明治時代から昭和30年代頃まで、広く活躍した氷冷蔵庫。電気冷蔵庫の普及とともに姿を消していきましたが、実は今も現役で稼働している氷冷蔵庫があります。
そのひとつが、東京・御茶ノ水にある老舗「山の上ホテル」のレストラン「てんぷらと和食 山の上」。1954年の開店以来、ずっと氷冷蔵庫を使い続けています。その理由は、ネタのおいしさ保持へのこだわりです。
「機械で48時間かけてつくった、特注の大きな氷の塊が敷き詰められた庫内は、生鮮食品の保存に適した温度と湿度が保たれているので、ラップをかけなくても食材が乾燥せず、みずみずしい状態のまま。電気冷蔵庫で保存した時と比べ、揚げた時にふっくらと仕上がります」
山の上ホテル日本料理5代目総調理長の島貫茂さんは、氷冷蔵庫の魅力を語ります。
食材の保存性のみならず、消臭効果があることから、最近は寿司やてんぷらの料理人の間で、氷冷蔵庫の価値が見直されているようです。維持費は業務用の電気冷蔵庫より高く、庫内にたまる溶けた水を頻繁に除去しなければならないなど手間はかかりますが、「氷冷蔵庫の良さを知ってしまうと、もう他のものは使えません」と島貫さん。氷冷蔵庫が名店の味を陰ながら支えているのです。

関東大震災の被災者に氷を提供

明治時和合英太郎は本業のかたわら、社会貢献活動にも力を尽くしました。1923年に発生した関東大震災で、焦土と化した東京で多くの市民が苦しんでいた時、英太郎は会社の貯氷庫を開放して、市民に氷を提供しました。また、経済的な事情に苦しむ優秀な学生40人以上に学資を与えて、支援したそうです。

参考文献

  • 天野米作 「日本に於ける製氷の歴史に就て」 『日本冷凍協会誌』1巻2号 日本冷凍協会、1926年
  • 粟屋良馬 「統計から見た本邦製氷事業」 『日本冷凍協会誌』2巻19号 日本冷凍協会、1927年
  • 長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
  • 岡本信男 『水産人物百年史』 水産社、1969年
  • 香取国臣編 『中川嘉兵衛伝―その資料と研究―』 関東出版社、1982年
  • 『広島県大百科事典』 中国新聞社、1982年
  • 『日本の『創造力』近代・現代を開花させた四七〇人』第9巻 NHK出版、1993年
  • 富田仁編 『事典 近代日本の先駆者』 日外アソシエーツ、1995年
  • 村瀬敬子 『冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年』 論創社、2005年
  • 『明治大正産業史』第2巻 日本図書センター、2004年
  • 大澤秀人著、横濱元町古今史編さん委員会編 『横濱元町古今史点描』横濱元町資料館、2008年
  • 荒川区立荒川ふるさと文化館 『東京’氷’物語』 荒川区立荒川ふるさと文化館、2013年

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2022年1月24日