氷と暮らしの物語 <第2回> 西の氷王・山田啓介の龍紋氷室

中川嘉兵衛の成功で、ブームとなった天然氷。これに続けと、各地に採氷業者が続出しました。
関西では、山田啓助が龍紋氷室を設立。「人命救助」を旗印に、氷の大衆化に使命感を燃やします。
第2回は、「西の氷王」と称される啓助の足跡をたどります。

氷の販売で人命救助

中川嘉兵衛の「龍紋氷」は庶民に受け入れられ、氷水が一大ブームとなりました。嘉兵衛の成功によって天然氷は事業家たちの注目を集め、各地に採氷業者が続出しました。
「東の中川」に比肩する実業家として、日本の氷業の発展に大きく貢献した、「西の氷王」こと京都の山田啓助もそのひとりです。
1878年、啓助は京都府に奉職していた化学者の池田正三から、「氷というものは人命を救うものである。暑中に生命のおぼつかない熱病人でも、氷のために一命を取り留めることがある」と、氷の持つ効能を教授されます。
「浅学な私には医術のことはわからない。しかし、氷を大衆に安く販売できれば、間接的に人命を救助するのも同然ではないか――」
正三が発した「人命救助」の一言は、仕事を通じた社会貢献に関心があった啓助を突き動かします。ランプの貸し付けや清涼飲料水の販売など、様々な事業を展開してきた啓助は、氷業に生涯をささげることを決意。35歳のことでした。

龍紋氷室が関西を席巻

啓助は1879年に神戸で氷の販売をはじめました。80年には函館で300トンの天然氷を買い付け、船で神戸へ輸送。運送会社の倉庫を改造して、貯氷しました。
神戸から、啓助が本店を構える京都には、1880年に神戸―大津間で開通した鉄道で送氷しました。冬場は、淀川から高瀬川を結ぶ船便を利用することもあったそうです。
以後2、3年は函館から年間500~600トンの天然氷を仕入れました。
1883年、社名を「龍紋氷室」に定めます。87年までに京都、神戸、大阪、大津に支店を出店。大阪に4棟、京都に2棟、神戸と大津に1棟の貯氷庫を設置しました。
啓介はさらに、自社ブランド氷の専売店を新設するなど、投資のペースを緩めません。1890年には、「大阪凍氷」を吸収合併し、河内・生駒山の氷池の製氷権を掌握。こうして、龍紋氷室の天然氷は関西地区を席巻しました。

龍紋氷室の五稜郭での採氷の様子。
当時発行された絵葉書で、「大正三年六月 開放紀念 五稜郭」というスタンプがある。

1892年には、函館・五稜郭の天然氷の取り扱いの権利を公入札で獲得。函館に支店と冷蔵倉庫8棟を新設して、中川嘉兵衛がはじめた五稜郭での採氷事業を継承します。なお、龍紋氷室の函館倉庫は現在、ニチレイ・ロジスティクス北海道の函館物流センターになっています。
函館に進出した翌年の1893年、東京に支店と貯氷庫を設置。帝都に龍紋氷室の標旗を掲げました。

氷王も手を焼いた天然氷

山田啓助がはじめて函館氷と出合ったのは、1876年のこと。
当時、啓助は「リモナード」という、今日のレモン水に相当する清涼飲料水の製造・店頭販売を、京都で行っていました。
当初は「京都は昔から水の良いところだ。ここで売っても、思うように儲からないだろう」と考え、氷を入れずにリモナードを販売していました。ところが、暑さと珍しさから、氷を求める客が殺到。「うちでは扱っていない」と断ってしまうと、他店に客が流れる恐れがあるので、やむなく仕入れることに。
啓助は、夏の盛りはともかく、売れ行きが鈍ると容赦なく溶けて消えていく天然氷をみて、「氷屋という商売は資本が水になる。元金が流れる。これは孫子に伝える商売ではない」と、述懐しています。
後に「西の氷王」と称えられる啓助も、氷の扱いには手を焼いたようです。

参考文献

  • 内山例之助 『北海道案内』 万巻堂、1903年
  • 京浜実業新報社 『京浜実業家名鑑』 京浜実業新報社、1907年
  • 島田福太郎 『成功者と其人格:処世修養』 春江堂、1911年
  • 長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
  • 田口哲也 『氷の文化史―人と氷のふれあいの歴史』 冷凍食品新聞社、1994年
  • 函館市史編さん室 『函館市史デジタル版 通説編第2巻第4編』

非営利目的での複製・転載などについてのご要望は、以下からお問い合わせ下さい。

2022年1月24日