ニチレイから、いま伝えたい食にまつわる
よもやま話が集まって、ひとつの「こおらす」奏でます

<第1回> 中川嘉兵衛と氷業のはじまり

夏場の氷はセレブのもの――。
製氷技術のない時代、氷はとても貴重でした。
庶民が氷を利用できるようになるのは、明治期以降のこと。
そのカギを握るのが、氷事業のパイオニア・中川嘉兵衛です。
第1回は嘉兵衛の事業の軌跡を追いながら、氷業のはじまりをひもときます。

文明開化と天然氷

「五稜郭伐氷図」函館市中央図書館蔵
「五稜郭伐氷図」
函館市中央図書館蔵
 かつて、「夏場の氷」は貴族や権力者のようなごく一部の特権階級しか享受できない、とてもぜいたくなものでした。5~6世紀には、冬にとった天然の氷を「氷室」という貯蔵施設に保存し、天皇への献上品として利用する制度が存在したほどです。
 夏場の氷を庶民が楽しめるようになるのは、明治時代以降になります。
 1853年のペリー来航を契機に、日本は開国に向けて動き始めました。54年に日米和親条約、58年に日米修好通商条約が結ばれ、各地に外国人居留地ができました。
 氷は外国人医師からやけどや熱病の治療用に需要がありましたが、当時の日本に氷を大量に生産・輸送する技術はありませんでした。そのため、はるばるアメリカはボストンから天然氷(通称「ボストン氷」)を輸入していました。

氷業に全財産をかける

 来日した宣教師に医療や食品の保存に氷が有益であると教示され、天然氷の製造・採取と販売の事業化を志したのが、中川嘉兵衛です。
 1861年、嘉兵衛は横浜で氷室建設の許可を受け、富士山麓で採氷をはじめました。木箱におが屑を詰めて氷を包み、馬で静岡市の江尻港まで運び、そこから帆船を借りて横浜に輸送を試みました。しかし、採氷時に100トンあった氷は、航海中に大半がとけて、横浜到着時にはわずか8トンになってしまいました。
 その後も事業は思うようにいきませんでした。諏訪湖、日光、釜石、青森と、本州の寒冷地を北上しながら採氷し、横浜に輸送するチャレンジを繰り返しましたが、いずれも失敗に終わりました。
 それでも嘉兵衛はあきらめませんでした。全財産をつぎ込み、北海道に渡航。函館・五稜郭の製氷に適した良好な水質と船便の利便性の高さに、今度こそ事業の成功を確信した嘉兵衛は、アメリカから技術者を招聘。北海道開拓使・黒田清隆から五稜郭における7年間の採氷専取権を獲得しました。
 歓喜の瞬間は7度目の挑戦でやってきます。1869年、ついに天然氷約500トンの採氷と、京浜地区への輸送・販売に成功しました。
 生産量は、1870年に600トン、1873年に1200トンと増加。そして、1871年に函館の豊川町に3500トン収蔵可能な貯氷庫を、さらに1873年に日本橋の箱崎町に大型氷室を建設。事業を軌道に乗せました。

輸入モノに勝った「函館氷」

「函館氷広告」函館市中央図書館蔵
「函館氷広告」
函館市中央図書館蔵
 嘉兵衛は五稜郭で切り出した氷を、「函館氷」と命名して販売しました。当時、日本市場を独占していたボストン氷よりも価格が安くて、品質も良好だったことから、主な顧客である横浜居留地の外国人医師の支持を集め、ボストン氷との販売競争を制しました。
 さらに、アメリカから採氷機を導入して、手作業で行っていた採氷を効率化するなど、低価格化に努めたおかげで、函館氷は広く出回るようになり、庶民の間で氷ブームが起こりました。嘉兵衛の成功に触発されて、関東近県でも採氷を行い、販売する業者が急増。しかし、氷の品質は粗悪なものもありました。
 嘉兵衛は1877年に東京・上野公園で行われた第一回内国勧業博覧会に函館氷を出品し、一等賞を受賞しました。その賞牌に龍の紋章が記されていたことから、商品名を「龍紋氷」と改名し、大衆にアピール。一世を風靡しました。

氷ひと箱60万円!?

 ボストン氷の輸入には船便を使用していました。当時は、欧州とアジアを連結するスエズ運河がなかったので、アフリカ大陸南端の喜望峰をまわり、日本到着に半年以上かかりました。
 輸送過程でかなりの量が溶けてしまうため、ボストン氷はとても高価でした。みかん箱あるいはビール箱大の氷で、3~5両(現在の30~60万円ほど)したそうです。

牛肉・牛乳を広めたのも中川嘉兵衛

「中川嘉兵衛」函館市中央図書館蔵
「中川嘉兵衛」
函館市中央図書館蔵
 1817年、中川嘉兵衛は愛知県三河で生まれました。
 42歳の時、横浜開港のニュースを聞き、国際化の時代の到来を察した嘉兵衛は、横浜に移住。初代英国公使・オールコックのもとでコック見習いとして働くうちに、西洋の食文化の普及、流行を予感し、牛肉と牛乳の販売店を開業しました。
 牛肉と牛乳を取り扱う上で、腐敗防止や品質保持は課題でした。嘉兵衛はヘボン式ローマ字の創設者で医師のヘボン博士に会い、食品衛生における氷の有益性を教示されます。こうして、氷のニーズが将来的に高まることを予想した嘉兵衛は、製氷の事業化を決意しました。函館氷の国内での供給に成功した嘉兵衛は、清国、韓国、シンガポール、インドなどへの輸出にも着手。
 1873年から77年までの4年間での輸出数量は、約8000トンにも達したそうです。1897年には、機械製氷時代の到来を見越して、機械製氷会社を設立するも、同年病のため死去。79歳でした。

【参考文献】
長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
香取国臣編 『中川嘉兵衛伝:その資料と研究』 関東出版社、1982年
北海道新聞社編 『北海道歴史人物事典』 北海道新聞社、1993年
田口哲也 『氷の文化史―人と氷のふれあいの歴史』 冷凍食品新聞社、1994年
日本冷凍空調学会日本冷凍史編集委員会編 『日本冷凍史』 日本冷凍空調学会、1998年
村瀬敬子 『冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年』 論創社、2005年
函館市史編さん室 『函館市史デジタル版 通説編第2巻第4編』
【監修者プロフィール】
函館短期大学食物栄養学科学科長・教授
猪上徳雄
1944年生まれ。北海道大学水産学部卒。
北大大学院水産化学研究科博士課程修了(水産学)、北海道大学に35年間教員として奉職。2007年より現職。
専門は食品加工で、長年、魚肉の冷凍変性の研究に従事。

氷と暮らしの歴史をたどる

2014.7.1 更新

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