氷と暮らしの物語

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氷と暮らしの物語 <第5回> 製氷業界を再編した和合英太郎

人々の衛生意識の高まりを受け、冷蔵保存用として氷の需要は増加。全国各地に、たくさんの製氷会社が設立されます。
しかし、激化する販売競争に製氷会社は疲弊し、業績は次第に悪化していきます。
第5回は、混とんとしていた初期の製氷業界をまとめ上げ、健全な発展に尽力した、「製氷業界のドン」こと和合英太郎(わごうえいたろう)の功績を記します。

衛生意識の高まり

「人工氷は有害なもの」という風評被害を払拭して、天然氷のシェアを抜き返した人工氷。当初は飲料用として普及しましたが、1897年に感染症のコレラと赤痢が流行し、人々の衛生に対する意識が高まったことが転換点となります。市場では、肉や魚、野菜など生鮮食品の腐敗や病原菌の繁殖を防ぐため、冷蔵保存用に氷が使用されるようになり、さらに明治時代後半から都市部の裕福な家庭を中心に、氷を入れて冷やす冷蔵庫 (以下、氷冷蔵庫)が普及し始めたことで、氷の需要は増加。1914年度は約32万トンだった生産数量は、1925年度には約127万トンと、およそ10年で4倍になりました。
しかし、旺盛な需要に応えるかたちで、製氷会社が全国各地に乱立すると、激しい商戦が展開されるようになります。価格競争で苦境に陥る会社が現れるなど、製氷業界は疲弊し、混とんとした状況に陥ってしまいます。このような状況を打開して、製氷業界を統一することでさらなる発展をもたらすために立ち上がったのが、和合英太郎です。

※『日本冷凍協会誌』2巻19号(日本冷凍協会)をもとに作成。

機械製氷を設立

和合英太郎は1890年、渋沢栄一や浅野総一郎など、財界のそうそうたるメンバーが株主として名を連ねる青山製氷所が設立されると同時に入社。事務と工場監督を兼務しました。しかし、経営状態はかんばしいとは言えず、1892年3月には廃業となってしまいます。
1897年、日本の採氷業のパイオニアである中川嘉兵衛らが、東京・本所に機械製氷を設立。同年に亡くなった嘉兵衛の後を継ぎ、息子の佐兵衛が社長に就任しました。青山製氷所で働いた経験から、製氷業に関心を示すようになった英太郎も、発起人のひとりとして参画。製氷工場の支配人兼技術師となりました。
機械製氷は、同じ東京を拠点とする東京製氷と共存共栄を図るため、1907年に合併。新会社・日本製氷が誕生します。設立当初は佐兵衛が社長を務めていましたが、09年には英太郎に交代しました。

「製氷業界のドン」に

英太郎は「製氷業者同士の過当競争は不利益をもたらす」との信念から、全国の大小さまざまな製氷会社を買収・合併していきます。1919年には最大のライバルだった東洋製氷と合併し、新会社・日東製氷を設立。28年には、関西を拠点とする老舗・龍紋氷室と合併。これを機に、社名を大日本製氷と改称し、社長には英太郎が就任しました。
「西の氷王」と称される龍紋氷室社長の山田啓介は、英太郎率いる日東製氷による業界再編に強く抵抗したとされていますが、最終的には「二重投資および両社対立の不利をさけて、会社の健全な発展と株式社員の一層の幸福のため」に決断。この合併が実現して、名実ともに「製氷業界のドン」となった英太郎の喜びは、ひとしおだったようです。
英太郎が1933年に病気で社長を辞任するまでに合併した会社の数は80、出資した会社の数は60におよびます。製氷事業を通じて、食や衛生などの分野の発展に貢献した英太郎はその功績が称えられ、39年の死後、従六位に叙せられました。

今も健在!氷冷蔵庫の魅力に迫る

庫内には1個約16㎏の氷の塊が8個敷き詰められており、
毎朝、半分を新しいものと交換している。

明治時代から昭和30年代頃まで、広く活躍した氷冷蔵庫。電気冷蔵庫の普及とともに姿を消していきましたが、実は今も現役で稼働している氷冷蔵庫があります。
そのひとつが、東京・御茶ノ水にある老舗「山の上ホテル」のレストラン「てんぷらと和食 山の上」。1954年の開店以来、ずっと氷冷蔵庫を使い続けています。その理由は、ネタのおいしさ保持へのこだわりです。
「機械で48時間かけてつくった、特注の大きな氷の塊が敷き詰められた庫内は、生鮮食品の保存に適した温度と湿度が保たれているので、ラップをかけなくても食材が乾燥せず、みずみずしい状態のまま。電気冷蔵庫で保存した時と比べ、揚げた時にふっくらと仕上がります」
山の上ホテル日本料理5代目総調理長の島貫茂さんは、氷冷蔵庫の魅力を語ります。
食材の保存性のみならず、消臭効果があることから、最近は寿司やてんぷらの料理人の間で、氷冷蔵庫の価値が見直されているようです。維持費は業務用の電気冷蔵庫より高く、庫内にたまる溶けた水を頻繁に除去しなければならないなど手間はかかりますが、「氷冷蔵庫の良さを知ってしまうと、もう他のものは使えません」と島貫さん。氷冷蔵庫が名店の味を陰ながら支えているのです。

関東大震災の被災者に氷を提供

明治時和合英太郎は本業のかたわら、社会貢献活動にも力を尽くしました。1923年に発生した関東大震災で、焦土と化した東京で多くの市民が苦しんでいた時、英太郎は会社の貯氷庫を開放して、市民に氷を提供しました。また、経済的な事情に苦しむ優秀な学生40人以上に学資を与えて、支援したそうです。

参考文献

  • 天野米作 「日本に於ける製氷の歴史に就て」 『日本冷凍協会誌』1巻2号 日本冷凍協会、1926年
  • 粟屋良馬 「統計から見た本邦製氷事業」 『日本冷凍協会誌』2巻19号 日本冷凍協会、1927年
  • 長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
  • 岡本信男 『水産人物百年史』 水産社、1969年
  • 香取国臣編 『中川嘉兵衛伝―その資料と研究―』 関東出版社、1982年
  • 『広島県大百科事典』 中国新聞社、1982年
  • 『日本の『創造力』近代・現代を開花させた四七〇人』第9巻 NHK出版、1993年
  • 富田仁編 『事典 近代日本の先駆者』 日外アソシエーツ、1995年
  • 村瀬敬子 『冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年』 論創社、2005年
  • 『明治大正産業史』第2巻 日本図書センター、2004年
  • 大澤秀人著、横濱元町古今史編さん委員会編 『横濱元町古今史点描』横濱元町資料館、2008年
  • 荒川区立荒川ふるさと文化館 『東京’氷’物語』 荒川区立荒川ふるさと文化館、2013年

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2022年1月24日

氷と暮らしの物語 <第3回> 横浜で発祥した機械製氷

大衆の人気を博した天然氷は、1887年頃をピークに徐々に衰退していきました。
氷を人工的に作り出す「機械製氷」の技術が発達したためです。
1879年、日本初の機械製氷会社と製氷工場が横浜に設立。この製氷工場は経営者を何度も替えながら、100年以上の間、稼働しました。
第3回は、天然氷の全盛期に機械製氷に挑んだ、先駆者たちの辛苦の物語を紹介します。

機械製氷の足音

1805年にフレデリック・チューダーが世界初となる天然氷の採氷業を興してから、約70年が経過。フレデリックが販売した「ボストン氷」は世界市場を席巻し、彼の成功に続けと、世界各地で新規参入業者が相次ぎました。中川嘉兵衛が販売した「函館氷」、イギリスなど欧州を中心に流通した「ノルウェー氷」も、その流れで誕生したものです。
このように、世界的に最盛期を迎えていた天然氷ですが、機械製氷技術の発達によって、20世紀を目前に徐々に衰退していきました。
17世紀頃から欧州では、気化熱などを利用して、人工的に低温状態をつくる研究が行われてきました。機械製氷技術が実用化されたのは、19世紀に入ってからです。1869年にフランス人のフェルディナン・カレーが、営業用の製氷機を開発し、米国のルイジアナ州とテキサス州に計5ヵ所の機械製氷工場を開業しました。これが、世界初の機械製氷工場とされています。

福沢諭吉の治療に貢献

日本における機械製氷の黎明期には、福沢諭吉の名が登場します。
1870年の夏のことです。発疹チフスにかかってしまった福沢諭吉は、連日の高熱にさいなまれていました。苦しむ諭吉を救おうと、慶應義塾の塾生が立ち上がります。氷の解熱作用に着目した塾生は、氷を入手しようと奔走しましたが、中川嘉兵衛が函館での採氷事業に成功して間もない頃の東京ではなかなか手に入りませんでした。
そんな中、塾生は、福井藩主の松平春嶽が外国製の小型製氷機を所有していること、そして使い方がわからずに放置しているという情報を聞きつけました。この製氷機を春嶽から借り受けた塾生は、大学東校(現・東京大学)の宇都宮三郎教授のもとに持ち込み、試運転したところ、製氷に成功。その甲斐あって、諭吉は無事に回復したそうです。

神奈川日冷の山手工場

日本の機械製氷は横浜発祥

「西の氷王」こと山田啓助が神戸で天然氷の販売を開始した1879年、米国人のアルバート・ウォートルスが横浜の山手に、日本初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」を設立。一般消費者向けに人工氷を販売しました。
同社は1881年に競売にかけられ、オランダ人のルドヴィカス・ストルネブリンクとファン・リサが落札。社名を「横浜アイス・ワークス」に改めました。1883年にはストルネブリンクの単独経営となりました。ストルネブリンクは製氷機を増設するなど、工場の設備充実に力を入れました。
ストルネブリンクの製氷工場は、1884年に日本人資本による初の製氷会社である東京製氷に売却されるなど、経営母体を何度も代えながら、100年以上にわたって運営されました。創業以来の製氷工場は、1923年に発生した関東大震災で崩壊してしまいましたが、1924年に再建。その後、99年まで、ニチレイの子会社だった旧・神奈川日冷の山手工場として稼働してきました。
現在、この製氷工場は解体され、跡地は結婚式場「山手迎賓館」に生まれ変わりました。式場の脇には記念碑が設置され、横浜が「機械製氷発祥の地」であることを、現在に語り継いでいます。
ニチレイグループにはニチレイ・アイスという製氷会社がありますが、その源流をたどると、日本で最初の機械製氷会社に行き着くのです。

「横浜アイスワークス」横浜開港資料館所蔵

横浜が「機械製氷発祥の地」であることを記した記念碑

機械製氷は神さまに失礼!?

産業革命が進行していた欧米でも、機械製氷は工業化が遅れた分野でした。「天然氷は、至善の神により、冷たさを人間に与えたものである。人類が氷を人工的に作り出すことは、神への冒とくである」という観念が、欧米に根強く存在していたことが原因です。
そのため、スコットランドのウィリアム・カレンが1775年に、減圧下で水を蒸気にして冷却し、氷を発生させるという、冷凍技術の先駆けとなる技術を発明しましたが、当時はあまり注目されませんでした。
また、米国・フロリダ州の医師であるジョン・ゴリーは1844年、自身の病院に入院していたマラリア病患者の治療の一環として、世界初となる空気式冷凍機を発明し、実用化に結び付けました。しかし、前述の観念ゆえに人々からの批判を恐れた同氏は、特許申請をしばらくの間、見合わせたそうです。

参考文献

  • 長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
  • 生出恵哉 『横浜山手外人墓地』 暁印書館、1984年
  • 奥田毅『低温小史―超伝導へのみち』 内田老鶴圃、1992年
  • 田口哲也 『氷の文化史―人と氷のふれあいの歴史』 冷凍食品新聞社、1994年
  • 日本冷凍空調学会日本冷凍史編集委員会編 『日本冷凍史』 日本冷凍空調学会、1998年
  • 村瀬敬子 『冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年』 論創社、2005年
  • 『改訂新版 世界大百科事典10巻』 平凡社、2007年
  • 『横浜もののはじめ考 第3版』 横浜開港資料館、2010年

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2022年1月24日

氷と暮らしの物語 <第2回> 西の氷王・山田啓介の龍紋氷室

中川嘉兵衛の成功で、ブームとなった天然氷。これに続けと、各地に採氷業者が続出しました。
関西では、山田啓助が龍紋氷室を設立。「人命救助」を旗印に、氷の大衆化に使命感を燃やします。
第2回は、「西の氷王」と称される啓助の足跡をたどります。

氷の販売で人命救助

中川嘉兵衛の「龍紋氷」は庶民に受け入れられ、氷水が一大ブームとなりました。嘉兵衛の成功によって天然氷は事業家たちの注目を集め、各地に採氷業者が続出しました。
「東の中川」に比肩する実業家として、日本の氷業の発展に大きく貢献した、「西の氷王」こと京都の山田啓助もそのひとりです。
1878年、啓助は京都府に奉職していた化学者の池田正三から、「氷というものは人命を救うものである。暑中に生命のおぼつかない熱病人でも、氷のために一命を取り留めることがある」と、氷の持つ効能を教授されます。
「浅学な私には医術のことはわからない。しかし、氷を大衆に安く販売できれば、間接的に人命を救助するのも同然ではないか――」
正三が発した「人命救助」の一言は、仕事を通じた社会貢献に関心があった啓助を突き動かします。ランプの貸し付けや清涼飲料水の販売など、様々な事業を展開してきた啓助は、氷業に生涯をささげることを決意。35歳のことでした。

龍紋氷室が関西を席巻

啓助は1879年に神戸で氷の販売をはじめました。80年には函館で300トンの天然氷を買い付け、船で神戸へ輸送。運送会社の倉庫を改造して、貯氷しました。
神戸から、啓助が本店を構える京都には、1880年に神戸―大津間で開通した鉄道で送氷しました。冬場は、淀川から高瀬川を結ぶ船便を利用することもあったそうです。
以後2、3年は函館から年間500~600トンの天然氷を仕入れました。
1883年、社名を「龍紋氷室」に定めます。87年までに京都、神戸、大阪、大津に支店を出店。大阪に4棟、京都に2棟、神戸と大津に1棟の貯氷庫を設置しました。
啓介はさらに、自社ブランド氷の専売店を新設するなど、投資のペースを緩めません。1890年には、「大阪凍氷」を吸収合併し、河内・生駒山の氷池の製氷権を掌握。こうして、龍紋氷室の天然氷は関西地区を席巻しました。

龍紋氷室の五稜郭での採氷の様子。
当時発行された絵葉書で、「大正三年六月 開放紀念 五稜郭」というスタンプがある。

1892年には、函館・五稜郭の天然氷の取り扱いの権利を公入札で獲得。函館に支店と冷蔵倉庫8棟を新設して、中川嘉兵衛がはじめた五稜郭での採氷事業を継承します。なお、龍紋氷室の函館倉庫は現在、ニチレイ・ロジスティクス北海道の函館物流センターになっています。
函館に進出した翌年の1893年、東京に支店と貯氷庫を設置。帝都に龍紋氷室の標旗を掲げました。

氷王も手を焼いた天然氷

山田啓助がはじめて函館氷と出合ったのは、1876年のこと。
当時、啓助は「リモナード」という、今日のレモン水に相当する清涼飲料水の製造・店頭販売を、京都で行っていました。
当初は「京都は昔から水の良いところだ。ここで売っても、思うように儲からないだろう」と考え、氷を入れずにリモナードを販売していました。ところが、暑さと珍しさから、氷を求める客が殺到。「うちでは扱っていない」と断ってしまうと、他店に客が流れる恐れがあるので、やむなく仕入れることに。
啓助は、夏の盛りはともかく、売れ行きが鈍ると容赦なく溶けて消えていく天然氷をみて、「氷屋という商売は資本が水になる。元金が流れる。これは孫子に伝える商売ではない」と、述懐しています。
後に「西の氷王」と称えられる啓助も、氷の扱いには手を焼いたようです。

参考文献

  • 内山例之助 『北海道案内』 万巻堂、1903年
  • 京浜実業新報社 『京浜実業家名鑑』 京浜実業新報社、1907年
  • 島田福太郎 『成功者と其人格:処世修養』 春江堂、1911年
  • 長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
  • 田口哲也 『氷の文化史―人と氷のふれあいの歴史』 冷凍食品新聞社、1994年
  • 函館市史編さん室 『函館市史デジタル版 通説編第2巻第4編』

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2022年1月24日

氷と暮らしの物語 <第1回> 中川嘉兵衛と氷業のはじまり

夏場の氷はセレブのもの――。製氷技術のない時代、氷はとても貴重でした。
庶民が氷を利用できるようになるのは、明治期以降のこと。そのカギを握るのが、氷事業のパイオニア・中川嘉兵衛です。
第1回は嘉兵衛の事業の軌跡を追いながら、氷業のはじまりをひもときます。

文明開化と天然氷

かつて、「夏場の氷」は貴族や権力者のようなごく一部の特権階級しか享受できない、とてもぜいたくなものでした。5~6世紀には、冬にとった天然の氷を「氷室」という貯蔵施設に保存し、天皇への献上品として利用する制度が存在したほどです。夏場の氷を庶民が楽しめるようになるのは、明治時代以降になります。
1853年のペリー来航を契機に、日本は開国に向けて動き始めました。54年に日米和親条約、58年に日米修好通商条約が結ばれ、各地に外国人居留地ができました。
氷は外国人医師からやけどや熱病の治療用に需要がありましたが、当時の日本に氷を大量に生産・輸送する技術はありませんでした。そのため、はるばるアメリカはボストンから天然氷(通称 「ボストン氷」 )を輸入していました。

「五稜郭伐氷図」函館市中央図書館蔵

氷業に全財産をかける

来日した宣教師に医療や食品の保存に氷が有益であると教示され、天然氷の製造・採取と販売の事業化を志したのが、中川嘉兵衛です。
1861年、嘉兵衛は横浜で氷室建設の許可を受け、富士山麓で採氷をはじめました。木箱におが屑を詰めて氷を包み、馬で静岡市の江尻港まで運び、そこから帆船を借りて横浜に輸送を試みました。しかし、採氷時に100トンあった氷は、航海中に大半がとけて、横浜到着時にはわずか8トンになってしまいました。
その後も事業は思うようにいきませんでした。諏訪湖、日光、釜石、青森と、本州の寒冷地を北上しながら採氷し、横浜に輸送するチャレンジを繰り返しましたが、いずれも失敗に終わりました。
それでも嘉兵衛はあきらめませんでした。全財産をつぎ込み、北海道に渡航。函館・五稜郭の製氷に適した良好な水質と船便の利便性の高さに、今度こそ事業の成功を確信した嘉兵衛は、アメリカから技術者を招聘。北海道開拓使・黒田清隆から五稜郭における7年間の採氷専取権を獲得しました。
歓喜の瞬間は7度目の挑戦でやってきます。1869年、ついに天然氷約500トンの採氷と、京浜地区への輸送・販売に成功しました。
生産量は、1870年に600トン、1873年に1200トンと増加。そして、1871年に函館の豊川町に3500トン収蔵可能な貯氷庫を、さらに1873年に日本橋の箱崎町に大型氷室を建設。事業を軌道に乗せました。

輸入モノに勝った「函館氷」

「函館氷広告」函館市中央図書館蔵

嘉兵衛は五稜郭で切り出した氷を、「函館氷」と命名して販売しました。
当時、日本市場を独占していたボストン氷よりも価格が安くて、品質も良好だったことから、主な顧客である横浜居留地の外国人医師の支持を集め、ボストン氷との販売競争を制しました。

さらに、アメリカから採氷機を導入して、手作業で行っていた採氷を効率化するなど、低価格化に努めたおかげで、函館氷は広く出回るようになり、庶民の間で氷ブームが起こりました。
嘉兵衛の成功に触発されて、関東近県でも採氷を行い、販売する業者が急増。
しかし、氷の品質は粗悪なものもありました。

嘉兵衛は1877年に東京・上野公園で行われた第一回内国勧業博覧会に函館氷を出品し、一等賞を受賞しました。その賞牌に龍の紋章が記されていたことから、商品名を「龍紋氷」と改名し、大衆にアピール。一世を風靡しました。

氷ひと箱60万円!?

ボストン氷の輸入には船便を使用していました。当時は、欧州とアジアを連結するスエズ運河がなかったので、アフリカ大陸南端の喜望峰をまわり、日本到着に半年以上かかりました。
輸送過程でかなりの量が溶けてしまうため、ボストン氷はとても高価でした。みかん箱あるいはビール箱大の氷で、3~5両(現在の30~60万円ほど)したそうです。

牛肉・牛乳を広めたのも中川嘉兵衛

「中川嘉兵衛」函館市中央図書館蔵

1817年、中川嘉兵衛は愛知県三河で生まれました。
42歳の時、横浜開港のニュースを聞き、国際化の時代の到来を察した嘉兵衛は、横浜に移住。
初代英国公使・オールコックのもとでコック見習いとして働くうちに、西洋の食文化の普及、流行を予感し、牛肉と牛乳の販売店を開業しました。

牛肉と牛乳を取り扱う上で、腐敗防止や品質保持は課題でした。
嘉兵衛はヘボン式ローマ字の創設者で医師のヘボン博士に会い、食品衛生における氷の有益性を教示されます。
こうして、氷のニーズが将来的に高まることを予想した嘉兵衛は、製氷の事業化を決意しました。函館氷の国内での供給に成功した嘉兵衛は、清国、韓国、シンガポール、インドなどへの輸出にも着手。

1873年から77年までの4年間での輸出数量は、約8000トンにも達したそうです。
1897年には、機械製氷時代の到来を見越して、機械製氷会社を設立するも、同年病のため死去。79歳でした。

参考文献

  • 長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
  • 香取国臣編 『中川嘉兵衛伝:その資料と研究』 関東出版社、1982年
  • 北海道新聞社編 『北海道歴史人物事典』 北海道新聞社、1993年
  • 田口哲也 『氷の文化史―人と氷のふれあいの歴史』 冷凍食品新聞社、1994年
  • 日本冷凍空調学会日本冷凍史編集委員会編 『日本冷凍史』 日本冷凍空調学会、1998年
  • 村瀬敬子 『冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年』 論創社、2005年
  • 函館市史編さん室 『函館市史デジタル版 通説編第2巻第4編』

監修者プロフィール

  • 函館短期大学食物栄養学科学科長・教授
  • 猪上徳雄
  • 1944年生まれ。北海道大学水産学部卒。
  • 北大大学院水産化学研究科博士課程修了(水産学)、北海道大学に35年間教員として奉職。2007年より現職。
  • 専門は食品加工で、長年、魚肉の冷凍変性の研究に従事。

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2022年1月24日

氷と暮らしの物語 <第4回> 天然氷と人工氷の販売合戦

機械製氷(人工氷)の技術が発達し、製造する会社が徐々に増えてきた1883年以降、天然氷と人工氷陣営による、激しい販売合戦が繰り広げられるようになります。
人工氷は当初、「有害品」という悪評が広まり、販売に苦戦しましたが、東京製氷が宮内省の指定工場となったことなどにより、形成逆転します。
第4回は、人工氷が人々から支持され、天然氷のシェアを抜く過程に迫ります。

天然氷と人工氷の販売合戦

1883年、日本人資本による初の機械製氷会社である東京製氷が、東京市京橋区(現・東京都中央区)に設立。翌84年から人工氷の販売を開始しました。
この頃から、天然氷と人工氷陣営による、氷の販売競争が激化。両者は新聞広告やビラを配布するなどして、品質をめぐりネガティブ・キャンペーンを繰り広げました。
人工氷陣営は、「天然氷には目に見えない汚物が混合している」「野蛮なものである」などと痛烈に批判。それに対して天然氷陣営は、「根拠のない話で天然氷の信用を傷つけようとしている」と反論しました。堀を採氷場として利用する際に内務省衛生局の試験を通過しており、さらに警視庁の検査後に販売許可をもらっていることなどを理由に、安全性をアピールしました。
そして、天然氷陣営はお返しとばかりに、「人工氷は薬品を使用している有害品である」と言い広めました。これが致命傷となり、人工氷のイメージは悪化しました。

人造氷売出し広告(早稲田大学図書館所蔵)

当初は苦戦した人工氷

汚名返上しようと、人工氷陣営は「天然氷同様、内務省衛生局の試験を通過しており、衛生的である」と主張しましたが、焼け石に水。世間一般の人々が抱いていた、人工氷に対する安全性の疑念を晴らすことはできず、販売に苦戦しました。
そこで、東京製氷は、工場の前に人工氷を積んで、通行する児童に使ってもらうなどして、PRに力を入れました。こうした取り組みの結果、人工氷の品質に対する評価は高まっていきました。さらに、人工氷の価格は天然氷に比べ、一割近く安かったこともあり、徐々にシェアを増やしていきました。

雌雄を決した
「花氷」(はなごおり)

1887年、天然氷と人工氷陣営による激しい販売競争に終止符が打たれるきっかけとなる出来事がありました。
皇太子殿下(後の大正天皇)が東京製氷の築地工場を見学された時のことです。中に花を入れて凍らせた、観賞用の氷である「 花氷 」の製造現場を見学し、興味をもたれた殿下は、明治天皇へのおみやげとして花氷を持ち帰りました。ただでさえ機械製氷が珍しかった時代です。美しさと涼感を兼ね備えた花氷は大変珍重されました。
その後、東京製氷は宮内省に献上する花氷専用の製氷タンクを設置するなどの対応を行い、同省の御用指定工場となりました。そして、「宮中に納入する氷は機械氷に限る」との告示が出ました。このことは、天然氷に大打撃を与えました。
これをきっかけに、東京製氷は大宣伝を行い、人工氷に対して世間一般の人々が抱いていた悪いイメージを払しょくすることに成功。低価格に加えて、品質面でも信頼を集めた人工氷は、1897年には天然氷のシェアを追い抜きました。

天然氷が高くても人気だった理由

1889年の氷の価格(1トン換算)を、種類別、産地別に比較すると、以下のようになります。

種類 産地 価格
天然氷 北海道(五稜郭) 17円82銭
栃木県 15円50銭
神奈川県 14円40銭
人工氷 - 13円33銭

※香取国臣編『中川嘉兵衛伝―その資料と研究―』(関東出版社)をもとに作成

このように、天然氷は人工氷よりも割高だったにも関わらず、支持されていた理由は、堅くてとけにくいことと、人工氷が有害であると信じられていたことなどが挙げられます。ちなみに人工氷は当初、市場などで魚の保存用として使用されることが多かったようです。

ニチレイロジ関西で花氷を製造

ニチレイグループのルーツのひとつである東京製氷が躍進するきっかけとなり、今でも結婚式などのイベントで飾られることが多く、「氷の芸術」とも称される花氷。2012年頃までニチレイ・ロジスティクス関西の「西京物流センター」の製氷室で製造しており、奈良県の氷室神社で毎年5月1日に行われている「献氷祭」(けんぴょうさい)に献氷なども行っていました(現在は停止しています)。

花氷師が、仕上がりをイメージしながら氷中の造花や葉の位置を微調整して、約30時間かけて不純物や空気が入らないように凍らせていきます。その技術は、まさに職人芸といえるものでした。

参考文献

  • 天野米作 「日本に於ける製氷の歴史に就て」 『日本冷凍協会誌』2号 日本冷凍協会、1926年
  • 長塩哲郎編述 『京都氷業史』 全国事業新報社、1939年
  • 岡本信男 『水産人物百年史』 水産社、1969年
  • 香取国臣編 『中川嘉兵衛伝―その資料と研究―』 関東出版社、1982年
  • 日本冷凍空調学会日本冷凍史編集委員会編 『日本冷凍史』 日本冷凍空調学会、1998年
  • 『改訂新版 世界大百科事典10巻』 平凡社、2007年
  • 大沢秀人著、横濱元町古今史編さん委員会編 『横濱元町古今史点描』、2008年
  • 紀田順一郎 『横浜開港時代の人々』 神奈川新聞社、2009年
  • 荒川区立荒川ふるさと文化館 『東京‘氷’物語』 荒川区立荒川ふるさと文化館、2013年

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2022年1月24日