ニチレイから、いま伝えたい食にまつわる
よもやま話が集まって、ひとつの「こおらす」奏でます

張本勲「おふくろがつくる屑肉入り味噌汁とキムチ」

両親が長男、長女、次女の三人を連れて韓国から日本に渡ってきたのは1939年。翌年、広島で末っ子の私が生まれた。しかし、親父は移住の段取りをつけようと一時帰国した韓国で、太刀魚の骨が喉に引っかかり、私が5歳のときに急死してしまう。以来、おふくろが女手一つで私たちを育ててくれた。言葉がわからず、読み書きもできない異郷の地でどれだけ苦労したかと思うと、今も胸が熱くなる。おふくろは物静かだけれど芯の強い女性だった。長女を原爆で亡くした悲しみを一人、胸の奥底に秘めたまま、終戦後、家族が生き抜くために、六畳一間に三畳の土間があるだけのトタン屋根の古い家を借りて、ホルモン焼き屋を始めた。

商売用の肉は広島駅近くのヤミ市で仕入れていたが、わずかなバス代を惜しみ、炎天下の夏も雪が降る寒い冬も、下駄履きで一時間かけて歩いて買い出しに行っていたのを思い出す。そのときに牛肉の屑肉(くずにく)もついでに手に入れていたのだろう。

朝に晩につくってくれた味噌汁には、ネギ、豆腐と屑肉が入っていて、ニンニクの香りが食欲をそそった。育ち盛りのヤンチャ坊主で、いつも腹を空かせていた小学生の私は、おふくろが漬けたキムチとこの味噌汁さえあれば、何杯でもご飯が食べられたものだ。

韓国では百種類以上ものキムチがあり、リンゴや梨、牡蠣(かき)などを入れて旨味を出したりするが、うちは貧乏だったので、具材は白菜だけのシンプルなキムチである。それでも手をかけて丁寧につくっていたので十分に旨く、お客の評判も上々だった。店のお客は近くで働く工員や大工さんで、学校から帰ってガラッと戸を開けると、土間に置いたミカン箱のテーブルでいつも何人かが楽しそうに一杯やっている。なかに浪花節のうまいオッチャンがいて、私が六畳間で飯を食っていると、障子を開けて「勲ちゃん、こっちに来て聴けよ」と呼ばれ、ときにホルモンをご馳走してくれたりした。

18歳でプロ野球入りしたとき、東映フライヤーズから契約金としてもらった200万円を世話になった兄貴に預け、おふくろのために広島市内に土地を買い、家を建ててもらった。

今思うとちっぽけで平凡な家なのだが、それまで暮らしたトタン屋根の家に比べれば御殿のように見えたものだ。2年後、九州で試合をした帰りに、私はワンちゃん(王貞治)をこの家に招いた。五右衛門風呂に入って一泊したワンちゃんにも、おふくろはこの味噌汁を供したように思う。ワンちゃんはあの味を覚えているか、今度会ったら聞いてみたい。

古希を超えた今も味噌汁は私の大好物で、ときどきワイフにねだって同じ味をつくってもらう。ゴルフ帰りなど運動した後にこの味噌汁を飲むと、疲れが取れて元気が湧き出てくるから不思議だ。(談)

初出:2012年12月1日発行 ニチレイグループ広報誌 OriOri第28号

はりもと・いさお
1940年広島県生まれ。松本商業高から浪華商業高を経て、東映フライヤーズに入団。プロ入り1年目で新人王を獲得。1961年に首位打者。1962年にはパ・リーグ最優秀選手(MVP)に輝く。1970年、当時の日本記録となるシーズン最高打率3割8分3厘4毛を樹立。その後、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズ、読売巨人軍を経てロッテオリオンズで1981年に現役を引退。通算3085安打(日本プロ野球公式記録歴代1位)をはじめ、7回の首位打者、16回の打率3割以上をマーク。1990年野球殿堂入り。テレビ「サンデーモーニング」(TBS系)に出演中。

2014.3.20 更新

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