ニチレイ75年史
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■冷凍部門:輸入増に対応して庫腹を増大 円高※8 で不況に陥った日本だが、輸入は増えた。特に食料の輸入のうち肉類、魚類、野菜類の増加が顕著だった。肉類は1985年の70万5,000tが93年に166万6,000tと約2.4倍に増え、魚類(エビ等は除く)も1985年の77万1,000tが93年には169万7,000tと倍増した。輸入食料の急増は冷蔵施設の需要を促し、政府は1986年の「第6次倉庫整備5カ年計画」で90年に収容能力674万6,000t、1989年の「第7次倉庫整備5カ年計画」で93年に866万8,000tを実現するという高い目標を策定した。だが業界の投資意欲はこれを上回り、1989年末で763万4,000t、93年末には923万1,000tに庫腹が膨らんだ。とした。商事部門では新生ニチレイのイメージ戦略を担う冷凍食品と素材部門との連携で総合食品事業の構築※6 を目指した。さらに不動産事業の拡大、バイオテクノロジーなどの新規事業への注力を掲げた。 目標数値については、計画最終年度の1990(平成2)年度の売上高は4,500億円(85年度の約6割増)、経常利益は90~100億円(同、ほぼ倍増)と定め、冷蔵倉庫や食品工場の建設、研究開発などに500億円を投資する計画とした。 しかし1987年からバブル※7 景気の追い風を受けたものの、目標数値は達成できなかった。冷凍部門と冷凍食品部門は伸びたが売上高は3,861億円で約14%足りず、経常利益も81億円強と未達だった。売上高の未達は、売り上げの過半を占める水産・畜産の両部門が振るわなかったためだった。特に1986年は円高で水産・畜産物の輸入が増え、価格低迷から取り扱い金額が前年割れとなった。新規事業も後に紹介するアセロラ以外、売り上げに結びつかなかった。 なお後期経営計画については、次のような総括がなされた。「水産・畜産物の価格低迷という外部要因で目標数値は達成できなかったが、全社の収益構造は大きく改善した」「冷凍事業が低温物流事業となって新たな成長を始めるとともに、収益源としての基盤を一段と強固にした」「冷凍食品事業も収益に結びつかない長い試行錯誤から抜け出して躍進を始め、全社の士気向上に貢献した」。第2部どの海外事業に注力。「バブル」と呼ばれることが増えた。 当社も庫腹を拡大した。経営危機に陥った1981年から85年はグループ全体で約6万8,000tの増強にとどまったが、1986年からの5年間で44万t余り増えて110万tを超えた。これは冷蔵倉庫への投資が多かった1970年代後半の2倍以上である。1991年からの5年間にも約20万t増え、95年度末のグループ保管能力は130万tに迫った。 1990年には当時日本で最大規模(単体)の「船橋第二物流サービスセンター(保管容積4万7,000t)が完成した。大規模なだけでなく最新鋭の物流センター※9 だった。「24hr.」シリーズ洋食屋さんシリーズ72※6 素材から加工食品までの幅広い品揃えを実現し、食品の輸出入や現地生産な※7 中身が空洞な泡に見立てて命名。当時は好景気と称し、崩壊後に振り返って※8 対ドル240円台だった円は昭和期の末に150円を割り、平成に入ると120円台※9 大手畜産品メーカーのチルド牛肉の保管・配送を主目的とし、重量をバーコーを記録した。ドで管理した。中高生のお弁当シリーズイタリアンシリーズ5. FCプランとFCプログラム■冷凍食品部門:ヒット商品を生み出した開発力 冷凍食品部門は利益や戦略の面で立ち遅れが指摘されていただけに、その成長が待たれていた。1985年春からは、新商品発表会を主要都市の一流ホテルで再開。ビジュアルを活用し、新商品のコンセプトをアピールした。 1985年に消費者のライフサイクルの変化を汲み取り、「24時間いつでも食べられる」とのコンセプトで「24hr.」(トゥエニーフォーアワー)シリーズを新提案すると、翌年も「中高生のお弁当」シリーズ、さらに87年には「洋食屋さん」「イタリアン」シリーズとヒットが続いた。前期計画のテーマとして技術開発体制を強化した成果だった。■かつてない好景気の中で プラザ合意を受け、内需主導型経済への転換や輸入拡大で貿易黒字の縮小を目指す政府は、公共投資拡大、金融

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