ニチレイ75年史
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■企業風土を変革するために 当社は「N」マークを掲げ、「フレッシュ」をテーマとする企業広告で新生ニチレイのイメージアップを図っていった。一方、社内では「明日のニチレイ」キャンペーンで空気が変わり、前期経営計画の下で意識改革が進んでいた。 しかし40年近い歴史が醸成した風土は簡単には変わらない。そこでCI活動の一環として展開したのが、社内活性を目指すFN(フレッシュニチレイ)運動だった。1985(昭和60)年2月1日、社名変更の日を期して始まった。 FN運動は一口で言えばTQC(Total Quality Control/全社的品質管理)であるが、教科書的な手法ではなく、小集団活動をボトムアップで積み重ねることに特徴と意義があった。運動は、カード形式の提案、職場単位の小集団活動、有志による活動の3つで推進され、毎年1回地区予選を突破した優秀事例を集めてFN全国大会を開催した。「マイタスク(ノート)」と称した業務のマニュアル化も通常業務の中で進んだ。 明るい職場、自主・自立を育む活動として、FN運動はニチレイを活性化させた。■「日米女子プロゴルフ」の後援 株式会社スポーツニッポン新聞社は毎年10月末に「日米女子プロゴルフ」を主催してきたが、協賛企業と話がまとまらず、急遽、当社に冠大会の協賛を打診してきた。大きな費用はかかるが、大会の模様はTBS系列で全国放送され、スポーツ紙、一般紙、週刊誌などでも報道される。それは、CIに絶好のイベントということで金田は冠協賛を決断した。当初、Nマークの公表は1985年2月を予定していたが、この大会でのお披露目に変更した。 1984年10月16日、「ニチレイカップ※4 記者発表会」の席上、「ニチレイレッド」の「N」マークが披露され、その後、ロゴと社名はマスメディアに何度も登場した。10月25日、本戦前日のプロアマ戦で大会は幕を開け、トップゴルファーの岡本綾子※5 らが参加する中、最終日には1万4,000人の大ギャラリーが詰めかけ、無事に大会を終えた。刊)」から「フォーラム2101」に刷新※3 した。 1985年1月31日の全国紙5紙に新生ニチレイの誕生を謳う全面広告を掲載した。紙面の中央に「N」マークが大書され、その下に次のコピーが記された。 「あす日本冷蔵株式会社は、株式会社ニチレイに。ニチレイ、その1粒1粒がフレッシュの種。…ニチレイはおいしさと健やかさをお届けし、みなさまに心の満足をもたらす、すばらしい種でありたいと願っています。…いま新しいシンボルマークのもと、ニチレイのひとりひとりが“フレッシュの種”となって、世界中の人びととあたたかなコミュニケーションの実りをめざします。」71※3 1985年1月号が創刊号。なお、「2101(ニ・イチ・レイ・イチ)」は社名の語呂合わせで、電話番号などで多用された。※4 正式名称は「ニチレイカップ日米女子プロゴルフチーム選手権」社名変更の新聞広告※5 実力・人気とも当時№1の女子プロゴルファー。当社大会でも“綾子フィーバー”を巻き起こした。第5章 新生ニチレイへ3. 「FN運動」を展開4. 「明日のニチレイ」を目指した ■追い風に乗った計画 社名変更やCI活動、FN運動など社内外での積極的な取り組みは、前期経営計画(1983~85年度)を反映したものだった。体質改善を目指した同計画は所期の目標をほぼ達成し、1985(昭和60)年11月、「明日のニチレイ」を具現化する後期経営計画(1986~90年度)が立案された。 後期計画は、前期計画で定めた企業理念「人々により大きく心の満足をもたらすサービスを提供して成長する企業」を踏襲した。そして顧客ニーズの多様化と国際化の進展をチャンスと捉え、事業コンセプト「フレッシュ」の具現化と業容拡大を打ち出した。柱となる冷凍部門では大型冷蔵倉庫の建設で保管能力増大とオンライン化を進め、冷凍事業を進化させて低温物流事業として確立すること後期経営計画

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