ニチレイ75年史
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■ボトムアップによる意識改革を構想 これを一過性の事業環境として見過ごしてはならないという危機感を強く抱いた淺原社長は、「日々会社の門をくぐるとき、昨日の君であってはならない。明日の会社をどう構想し、そのための具体策を描いて私に提案してほしい」と折に触れて訴えた。 そしてたどり着いたのが、長期レンジに立った新しい経営ビジョンの創造であり、その創造過程を通じた社内改革だった。しかもそれはトップダウンによるビジョン提示ではなく、ボトムアップによる意識改革を企図していた。優秀な人材を集めて100点の計画を描いても、言われるままに実行するだけの意識しか持てない現場で40点の実行にとどまれば結果は40点である。逆に衆知を集めた計画が50点の出来でも、100%実行できれば50点の価値がある。さらに計画と実行の過程が意識改革を生み、明日の発展の原動力となる――これが淺原のコンセプトであり、「明日のニチレイ」キャンペーンを展開する原点となった。67シャルマン文京千駄木広島ビル(山陽コカ・コーラボトリング本社)第4章 経営危機を乗り越えて■オフィスビル事業への転換と住宅事業 マンション事業の進展と同時期、当社は自社ビルの管理・運営に主体を移し、1974年12月からは神田工場跡地(千代田区三崎町)における本社ビル建設計画に取り組んだ。1976年から地下の、1978年からは地上の工事に着手して翌79年11月に水道橋ビル(地上11階)が竣工、本社機能を集約した。 ノウハウを蓄積した当社は、より安定した収入が得られるオフィスビルの賃貸に事業方針を転換した。1984年3月に広島第二工場跡地に広島ビルを着工、翌85年に竣工して関連会社の山陽コカ・コーラボトリング(株)に一括賃貸した(1991年に同社に売却)。 また、オフィスビルに適さない土地では戸建て住宅を分譲した。埼玉・狭山(1983年)、北海道・江別(1986年)など、いずれも10棟台と小規模ではあったが「売り建て」方式でオーダーメイドに近いマイホームが建てられると好評だった。 一般ディベロッパーのようにリスクを負って新規調達した土地に建築するのではなく、自社の遊休地を活用する点に当社不動産事業の特徴と堅実性があった。しかし1980年当時は事業を開始して間もない頃で、利益を生み始めていたものの会社の危機を支えるには至らなかった。6. 「明日のニチレイ」キャンペーン■最大の経営危機 日本経済が第一次石油危機から立ち直りを見せる中、当社も淺原新社長の主導により新3カ年計画(1975~1978年)に取り組み、比較的順調に推移していた。 第一次石油危機以降、各企業は中・長期計画を毎年見直し、新たな環境与件を加味して修正する“ローリング方式”を採り始めた。当社も1974(昭和49)年度から策定の「5カ年計画」で同方式を取り入れ、1979年度に始まる「5カ年計画」でも踏襲した。しかし、ローリング方式では対処しきれない経営危機が日本冷蔵を襲った。 石油危機と200カイリ問題という二重の痛手を受けた1980年、当社の利益面を支えてきた冷凍部門の売上高が初めて前年比4.3%のマイナスとなり、そこに水産部門の20数億円に上る巨額損失が重なった。成長中だった冷凍食品の伸びも止まり、全社的にも初めてのマイナス成長となった。創立以来の重大な経営危機に直面し、社内にも危機意識が広がっていた。■キャンペーンに先立って 「明日のニチレイ」キャンペーンに先立つ1980年11月27日、「長・中期的な事業運営のビジョンに関し提言要請の

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