ニチレイ75年史
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■ブロイラーと食肉の苦境 ブロイラーのインテグレーション戦略を見直した当社は、国内集荷に加えて食鳥を輸入、販売面ではスーパーや外食産業に注力した。順調に業界2位を保持したブロイラー事業だが、石油危機で販売競争が激化しマーケットが混乱。屠体流通から解体流通への変化もあり、当社は鮮度劣化が早いブロイラーを段ボールに入れて大型冷蔵コンテナで運ぶチルド流通を試みた。 食肉(牛肉・豚肉)も1960年代後半から70年代にかけて国内需要※11 が伸びて輸入が拡大する中、需要は枝肉からボックスミート※12 に移っていた。当社は国内集荷に加えて豚肉の輸入に注力して取扱高を増やしたが、業界内のシェアは微々たるものでブロイラー以上に厳しい状況に直面していた。■レトルト食品へシフト 保存食品といえば缶詰だったが、大塚食品工業(株)が1968年に市販用レトルトカレーで大ヒットを飛ばすと、各社がレトルト市場に参入した。保存性以上に簡便さが好評で、業界全体のレトルト食品の売上高は1970年53億円、75年370億円、80年635億円と増えた。当社も1982年以降、「中華スープ(ふかひれなど)」「グルメソース(えびチリなど)」「麺の友(パスタソース、カレー南蛮など)」とカレーなど23品を発売して市販用レトルト市場に本格参入、業務用(サラダチキン、牛もつ煮込など)も品揃えを拡充した。■焼きとりビジネスのスタート 当社は1979(昭和54)年2月、畜産部に畜産加工品課を置いた。加工という付加価値によって利益増と局面打開を目指し、傘下の千葉畜産工業(株)の立て直しも念頭に置いていた。 最初に取り組んだのが焼きとりである。居酒屋のつまみという固定観念を外せば、家庭向けメニューというマーケットが見えてくる。何より畜産部の主力商材である鶏肉を原料とすることがビジネスの原動力となった。問題はコストだった。事業用にはトン単位の量が必要で、串刺しなどの労働集約型の加工作業をどう解決するかが焦点となった。そこで食鳥の輸入元である中国・山東省に着目、1981年に1,000tを超える串刺し加工済みの焼きとりを輸入した。 “日本一の焼きとり屋”を標榜してスタートした焼きとり事業は、居酒屋チェーンに加えてスーパーにも市場を拡大、期待通りの成果を収めた。その後、タイなどにも加工拠点を広げ、焼きとり事業は年間35億円超を売り上げるようになる。ほぐし肉」として発売してヒットし、1982年には農林水産大臣賞を受賞した。業務用ルートでは1978年に外食専用のカレーやソースの大型缶詰・レトルトを「FS(Foods System)」ブランドで発売、翌年には冷凍食品のレストランパックと同一デザインに統一し、高付加価値な商品を本格展開して高い評価を得た。昭和50年後半のレトルトパック各種 組織面では1980年に缶詰担当の食品部に冷凍食品部を統合して食品部とした後、1983年には食品部から常温食品を分離、食品第二部として独立させた。生産面では、主力工場の大栄食品(株)(山形県天童市)を1977年に缶詰からレトルト主体にシフトした。こうして相場商品から工業生産品へと移行させ、利益を上げる体制を整えていった。65※11 豚肉の年間供給量は1973年に100万t、鶏肉は1978年に100万t、牛肉は※12 枝肉を部分肉にして箱詰めしたもの。流通コスト・衛生面のメリットのほか、1980年度に50万tを超えた。部位別需要に対応した。サラダ・チキン第4章 経営危機を乗り越えて4. 「からあげクン」のヒット

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