ニチレイ75年史
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■本格的な「レストランパック」 市販用で苦戦した当社が他社に対抗するには、生産、品質管理、商品施策の各面で思い切った見直しが必要だった。当時の生産工場は支社に付属し、各工場は似たような商品を生産していた。そこで直営工場を本社直轄とし、生産アイテムを整理するとともに、メーカー志向を打ち出して生産利益を追求することにした。 品質管理面でも大きな進歩があった。冷凍食品専用の高槻食品工場は1977年にネッスル日本(株)(現 ネスレ日本(株))と提携し、「フィンダス」ブランド※7 の高級冷凍食品のOEM(受託生産)に取り組んだ。そこで学んだのは品質管理の厳しさだった。当社の品質管理が出口(製品)管理だったのに対し、「フィンダス」は入口(原材料)管理。原材料に問題があれば満足な製品を生産できないという思想は工程の随所に表れていた。 商品施策面でも方針を見直した。当社の冷凍食品部門は加工凍魚も扱っていたが、相場商品は水産部門に移して冷凍食品部門は調理品に絞ることにした。また当時の品揃えは5大品目(エビフライ、ハンバーグ、コロッケ、シューマイ、ギョーザ)のほか、「茶碗むし」「チャーシューメン」「開きいか」「大正エビ(小袋)」など他社も手掛けるオーソドックスなものだったが、当社は高級品路線を打ち出し1973年度74757677787920冷蔵水産品製氷畜産品凍結商事部門その他0406080冷凍部門その他貿易冷凍食品不動産常温食品その他収入チャンスとみた他社の参入で1970年代前半に業界全体の生産量が急増する中、1970(昭和45)年度に100億円台だった当社の売上高も73年度に200億円台に乗った。第1次石油危機による消費低迷後、1976年度には300億円台と伸ばして初めて単年度黒字に転じた。 しかし1970年代後半、当社の伸びが鈍った。他社は新商品を投じて品揃えを拡充、全国に販売体制を敷くとブランドの強みを発揮して市販用のマーケットで注目を集めた。業務用では当社が首位を堅持して冷凍食品全体では2割のシェアを確保したものの、市販用では苦戦を強いられた。低成長時代の数少ない成長分野である冷凍食品には、採算度外視でシェア獲得に走る新規参入組も出て競争が激化。冷凍食品業界では赤字が常態化していった。100(%)63事業部門別売上構成比の推移※4 調達した商品に口銭(手数料、斡旋料など)を乗せて販売するビジネス。※5 民法上の契約で受寄者が寄託者から預って保管する物。倉庫業法で詳しく規※6 規格が統一され、短時間で調理が容易な冷凍食品は、学校給食や産業給食で導定されている。入が早かった。※7 欧州で人気の冷凍食品ブランドだったが、「子牛のクリーム煮」「アップルパイ」など日本でなじみの薄いメニューだったため売れず、同社は日本の冷凍食品から撤退した。第4章 経営危機を乗り越えて3. メーカー志向と高級化路線■屋台骨を支える冷凍事業の業績が悪化 1970年代後半の日本冷蔵(株)は水産・畜産部門の売上高が全社の66~67%を占め、79年には7割を超えた。両部門は会社の規模を押し上げはしたが、口銭ビジネス※4 が中心で利益は安定しなかった。莫大な投資の反面、撤収や縮小せざるを得ない分野もあった。 一方、売上比率では10%程度の冷凍部門が当社の利益の大半を担っていた。伝統とシェアを誇る冷凍部門の強い基盤と利益があってこそ、商事部門はさまざまな試行錯誤をしながら事業を展開できた。 ところが石油危機と200カイリ問題の影響が大きかった1980年、冷凍部門の売上高は初めて前年比4.3%のマイナスとなる。冷蔵倉庫に保管する寄託物※5 の主力は水産物で、魚価高騰や消費者の魚離れによる影響がこの年に表面化した。利益面で会社を支える冷凍部門が揺らいだことで全社的にも初のマイナス成長となり、重大な経営危機に直面した。水産事業による巨額損失も痛手だったが、冷凍事業の不振は何より大きかった。■市販用冷凍食品に苦戦 1960年代後半、日本では業務用ルート※6 で冷凍食品の流通が進んだ。微々たるものだった市販用ルートも、1970年代に2ドア冷凍冷蔵庫が普及すると、百貨店に加えてスーパーマーケットや生協が売場を拡げ始めた。ビジネス

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