ニチレイ75年史
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■水産事業が経営危機を引き起こす 200カイリの漁業専管水域設定は、川上(調達先)から川下(小売店、加工業者)に至るルートやノウハウを持つ当社にとって、大手水産会社の優位に立つ好機かに見えた。 しかし現実は異なったものだった。食の洋風化で魚から肉に移行※2 する流れに加え、石油危機と200カイリ問題で燃料・賃金が高騰し、それを水産各社が魚価に転嫁したため魚が異常高値となった。さらに魚転がし※3 などの不祥事が相次ぎ、消費者の“魚離れ”を招いた。需要低迷で在庫整理に苦しんだのが、1980(昭和55)年当時の水産業界の実情だった。 当社の痛手は大きかった。水産他社や商社に肩を並べようと水産部門は積極策を採り、1979年度の取扱高は前年度を200億円上回って初めて1,000億円を突破したが、翌80年度は減少し800億円となった。これは、前年度に調達を増やして在庫が膨れ上がり、翌年は調達を抑えたためだった。さらに在庫整理に際して大幅値引きを余儀なくされ、経常利益に匹敵する20数億円という巨額損失を計上する事態になった。魚価高騰もあって取扱高は膨らんだが、利益は全く伴わなかった。 この状況を改善すべく、リストラの実施や仕入れ業務体制の見直しが行われた。仕入れ業務については、それまで本社がすべて管轄していたが、価格・数量・品質などの決定は支社で行い、本社は購買のみとする変更を行った。これらの対応と事業環境の好転により水産部門は数年も経たないうちに立ち直りをみせ、1984年には過去最大の利益を生み出した。第2部リは370.4㎞。に横ばいに転じた。社長は、大阪支社長時代に小規模冷凍工場の分離と冷蔵倉庫の大型化を推進したほか、人事労務政策や畜産事業への関心が高かった。厳しい時代にあって、当社は新たに立案した3カ年計画に取り組んだ。62※1 カイリは赤道の長さ(4万㎞)から計算された長さ。1カイリは1,852m。200カイ※2 日本人の摂取カロリーは増えたが、たんぱく質や脂肪の摂取量は1978年を境※3 現物を保管したまま業者間で帳簿上の売買を繰り返す不正行為。架空の相場や収益を作った。1. 石油危機と200カイリ問題■2度の石油危機と海をめぐる問題 長期にわたって高度成長を続けてきた日本経済だが、1970年代に起こった2度にわたる石油危機によって経済成長率は大幅に鈍化し、いわゆる安定成長の時代へと入っていった。この間、水産業ひいては国民の食生活を脅かす200カイリ※1 問題が浮上した。3カイリの狭い領海と広い公海を基礎とする伝統的な海の秩序の下で日本は屈指の遠洋漁業国に成長したが、1976(昭和51)年以降、世界の沿岸諸国では海洋の管轄権を拡大する動きが顕著になった。米国、ソ連(現 ロシア)、EC諸国(現 EU)が相次いで領海12カイリ、漁業水域200カイリを設定し始め、1980年末までに沿岸132カ国のうち84カ国が追随、日本漁船は「広い公海」から締め出されることとなる。 日本も1977年、「領海法」と「漁業水域に関する暫定措置法」を制定し、領海を12カイリ、漁業水域を200カイリとした。新しい海洋秩序の形成に参加することになったが、日ソ漁業交渉や沿岸諸国の姿勢は厳しさを増し、遠洋漁業を主体とした大手水産会社に打撃を与えた。1973年に日本の総漁獲高の37%を占めていた遠洋漁業は、1984年には18%と大きく減少した。■淺原英夫の社長就任 石油危機は国民生活に大きな影響を及ぼし、景気停滞下で物価上昇が続くスタグフレーションの進行による消費の減退から、当社事業も伸び悩んだ。1973年度の売上高は前年の約3割増の約1,300億円だったが、翌74年度はほぼ横ばいとなった。 こうした中、4期8年にわたって社長を務めてきた朝長嚴が1975年3月に退任し、新社長に淺原英夫が就任した。朝長は資本運用の効率化による企業体質の改善に取り組み、冷凍部門で収益基盤を立て直した。引き継いだ淺原新第4章 1973(昭和48)年~1984(昭和59)年経営危機を乗り越えて2. 経営危機に直面

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