ニチレイ75年史
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■合理化は時代の要請 1950年代半ばからの10年間で当社の売上高は2.9倍に増大した。とりわけ商事部門(冷凍部門以外)の伸長は著しく、伸び高の85%を水産・食品・畜産事業が担った。この流れは1960年代半ば以降も続き、1965(昭和40)年に364億3,900万円だった売上高は70年に764億1,800万円と2.1倍に拡大、伸びの大半は商事部門の売上だった。そうした中で当社の従業員数は1955年の2,946人から70年の3,859人と1.3倍にとどまり、膨大な業務量が従業員の負担となっていた。この傾向は多くの企業に共通し、事務の合理化は時代が求める最重要課題の一つだった。 取扱品種が多い上、事業所が全国に分散する当社の商事部門では、事務量の増加が著しく、時間外勤務や事務経費などに端的に現れ、営業活動や健康管理の面でも問題となっていた。そこで1957年2月、事務簡素化委員会を設置して伝票式会計制度を再検討し、同年8月、全社一斉にワンライティング※41 に移行した。翌58年7月には本社にナショナル31号・34号会計機(NCR社製/現 AT&T社製)を導入、大阪、福岡などの支社へも設置を進めた。■電算システムの導入 1960年代に入った日本では、パンチカードシステム(PCS)※42 から電算システム(EDPS)による事務処理あるいは情報処理体制の確立を目指す動きが顕著になった。これは、コンピューターの性能向上と普及に伴うコスト低下に加え、企業体質の改善や経営合理化に役立つとの認識が広がったためだった。 当社でも事務の効率化と本格的な経営指標分析のためにコンピューターの利用が求められた。1967年4月に事務機械化委員会を設置して検討を進め、翌年8月「経営高度化のための電子計算組織導入案」を役員会第2部に答申、11月には機械計算課を設置してHITAC8400((株)日立製作所製)の導入準備を進めた。コンピューターの利用は優先度の高い食品関係の事務処理から始め、生産、労務、税務そして経営管理へと拡げる方針とした。 1970年6月、コンピューターが始動した。当初は食品関係の販売統計や出荷状況など7項目で、全社の事務量からすれば一部にすぎなかったが、全国の取引内容が迅速かつ的確に処理・集約され、当社も電算化の一歩を踏み出した。60補償を求めてきた。当社は船橋問題処理委員会を設置して対応、県や第三者による調査を進めた結果、重油の流出量から推して被害は限定的だったが、企業の社会的責任の観点から各漁協に補償・見舞金支払いを行うこととして交渉を重ね、同年12月、決着した。※41 複写伝票などを使って1度の記入で複数の書類を作成する方式。※42 カードから命令やデータを電気的または機械的に検出し、コンピューターに読み込ませる。コンピューター室パンチ室11. 事務合理化の歩み12. 機構と資産の圧縮から 積極拡充へ■機構の合理化・圧縮から拡充へ 1960年代から70年代の日本経済は、高度成長を基調としながらも、好況・不況を繰り返した。当社においては、1962(昭和37)年の不況を契機に社内は拡大ムードから一転、緊縮合理化が目指され、組織や人事、業務の運営管理についても何度か見直しを行うこととなった。 その第一のポイントが1962年から翌年にかけての支社統合と食品部門の統合強化だった。62年に東京支社を復活させて勝鬨橋工場の屋上に事務所を構えると、翌年に

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