ニチレイ75年史
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■テレビCMとグリーンベルト 当社は1968年~69年にスポット的にCMを流したことはあったが、本格的にテレビで商品CMを放送したのは1970年春からだった。 1970年には市販用商品を3つのシリーズに分けた。米国で流行したTVディナー※32 の名称から着想した「ニチレイ「資金の運用力」「非能力主義の人事配置」「他社動向の調査不足、提携・協調の軽視」「抽象的な経営の方向性」「粘着力のない新規事業」などを挙げ、当面の課題や施策などを提言した。 提言を踏まえ、存在はしていたが明文化が不充分だった毎年度の経営方針を1964年度から明文化し、業務遂行の拠りどころとして全社に徹底した。その中心課題は資本運用の効率化、収益性の向上であり、企業体質の改善だった。となったが、翌68年3月、木村は推されて取締役会長に就き、松崎は相談役に退いた。69年にも改選を行い、武谷・三國・高橋の3常務、溝口取締役の4人が退任、三浦取締役は常務に、山本良一、青木雄次、相馬豊造、新開仁の4人が取締役に就任した。70年には取締役を増員して吉原省一を選出し、役員は木村会長、朝長社長以下、総勢15人となった。57※29 1966年の普及率は車が12.1%(71年に26.8%、76年に44.0%)で、クーラーが2.0%(同7.7%、19.5%)、カラーテレビは0.3%(同42.3%、93.7%)。※30 1968年には日本初の高層ビル、霞が関ビルが竣工。※31 木村は事業を拡大させたが財務面の負担は重く、朝長は負の遺産を整理して体質改善に取り組んだ。※32 区分けしたトレーに肉・ポテト・野菜などを入れた冷凍食品。テレビを見ながらの簡便な食事として1953年にスワンソン社が発売、大ヒットした。オーブン調理だったが、現在は電子レンジ調理が主流。第3章 冷力を基盤とする総合食品会社への道■役員の異動・改選 中谷副社長の逝去に伴う欠員補充として三國良雄を1962年3月に取締役に選任し、続いて北野常務の退任に伴い、鈴木榮一、淺原英夫が取締役に就任した。 65年3月には役員を大幅に代え、三宅副社長、下田常務、石井常務、江副取締役の4人が退任、代わって西村健次郎と三浦龜雄が取締役に就任した。このとき専務制を取り、朝長常務と西村取締役が専務に昇格、三國、山岸の両取締役が常務となった。■木村社長の辞任と朝長社長の就任 日本は1965年を底に再び景気が回復し、いざなぎ景気が始まった。輸出が大幅に伸長、新・三種の神器(カー、クーラー、カラーテレビの3C)※29 に代表される個人消費や建設※30 などの旺盛な国内需要にも支えられ、民間設備投資は再び増勢となった。一方、業界再編や企業の合併合同の動きがあり、労働力の逼迫、物価の慢性的高騰、公害の発生など企業経営にとって難しい局面が続いた。 当社は1960年以降の拡大施策の歪みを是正するため、体制の立て直しに取り組んだ。1966年に子会社の赤字はほぼ一掃され、各部門の業績も好転した。こうした中、引き締めを基調としつつも安定成長に向けて展開を図るべきと木村鑛二郎社長は判断し、1967年3月、辞意を表明した。16年間、冷力を基盤とする総合食品事業の実現に礎を築いた功績は大きかった。 新社長には朝長嚴専務が就任※31 した。そして西村専務が副社長に、鈴木、淺原の両取締役が常務に昇格、溝口浩一と根本一郎が取締役に就任した。木村と松崎副社長は取締役10. 冷凍食品の事業展開■冷凍食品の普及が加速 所得水準の向上は生活文化を変化させ、1960年代に入るとレジャーが拡がり始めた。食文化でも海外のファストフード店の日本進出やレトルトカレーの登場、またさまざまなテレビCMが家庭に浸透するなど、多くの変化が見られた。 食の簡便化が進む中で、冷凍食品の普及もこうした変化の一つといえた。日本では1950年代後半、給食を中心とした業務用ルートで冷凍食品の利用が始まり、普及活動とともに市販用商品も百貨店などで徐々に取扱いを拡げていた。また、家庭用電気冷蔵庫が1ドア式から冷凍を強化した2ドア冷凍冷蔵庫に進化し、普及した影響は大きかった。政府のコールドチェーン勧告によりインフラ整備も進み、スーパーマーケットなどでの市販用冷凍食品の取扱い開始も追い風となった。冷凍食品に対する新鮮でない、味が落ちるといったイメージは徐々に払拭され、使い方やメリットが認知され始めていた。 当社は1968(昭和43)年、市販用で「えびフライ」「コーンコロッケ」「チャーシューメン」を発売、翌年には「シューマイ(20個入り)」「ミニバーグ(現 ミニハンバーグ)」「バブルフルーツ(みかん/いちご)」が続いた。業務用商品の転用のほかに新企画もあり、好評を得た。

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