ニチレイ75年史
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■兼営工場を食品部門に移管 冷凍工場は製氷、冷蔵を中心とした冷力の供給販売事業であることから、当社では冷凍部門が主体となって運営管理にあたってきた。だが、水揚地や農産地に立地する冷凍工場の中には、水産物・野菜類の加工や水産物の集荷売買を行う工場もあった。これらは兼営工場と呼ばれ、冷販一致の方針の下で冷凍事業と水産加工・水産物売買の事業を一体運営してきた。ところが、1955年以降、付加価値の高い凍魚・加工凍魚の集荷生産に重点が置かれると、沿岸冷凍工場の多くが加工事業を増強した。製氷事業の退潮に伴い、食品の販売に注力する内陸工場も増えた。 そのため、当社は兼営が進んだ冷凍工場の一部を食品部門に移管※27 することとし、1970年までに約40工場を移した。冷凍工場の運営効率向上と同時に、食品加工・販売事業の伸長を期す目的だった。食品販売兼営工場の多くは販売所と改称され、製氷や冷蔵業務を続けながら食品販売の拠点となった。■合理化委員会と経営方針の明確化 岩戸景気の後、金融引き締めの影響で日本は1962(昭和37)年に景気が下降した。東京オリンピックとともに持ち直したかに見えたが、五輪景気の収束で1964年10月からは再び不況となった(40年不況、構造不況)。 不況の深刻化は当社にも影響し、販売の伸び悩み、収益低下、資金繰り悪化などが生じた。高度成長期の多額の設備投資で、特に食品・畜産・海外など発展途上の事業は大幅な赤字を余儀なくされ、漁業会社への投融資も重い負担となった。当社は投資拡大の是正をはじめ、不採算部門の整理統合、投資効率の向上、基幹事業の合理化など、緊急課題への対応を急いだ。 当社は1963年10月、石井、武谷、朝長の3常務を委員とし、合理化委員会を設置した。目的は「収益が低下傾向にあるなどの問題について広い視野から率直に答申すること」だった※28 。委員会は、当社の問題点として「資産と取扱高、利益のアンバランス」「資産運用や投融資の雑な計画」■中小冷凍工場の分離 冷凍業3カ年計画に基づき、当社は大消費地と主要漁港に超低温大型冷蔵倉庫を建設してきた。しかし当社が全国に擁する160以上の冷凍工場の多くは、戦災を免れ、あるいは資材難の中で再建した製氷主体の工場だった。それらは規模も小さく、収益力や成長性に問題を抱え、大型化・近代化政策に合わない工場だった。しかし当社はそうした工場が地域社会に密接な関わりを持って運営されてきた点に着目し、独立させて地域への密着度をさらに高める方式を取った。分離にあたり、資産は当社が持って賃貸し、対外営業、債権債務、施設管理など運営上の権限は従業員とともに新会社に委ねた。 ただ、個別に独立したのでは発展が難しいため、地域ごとに工場を集約して分離するとともに、必要に応じて増改築を助成した。こうして、1959(昭和34)年に川崎・鎌倉工場を(株)神奈川アイスプラント※26 に賃貸したのを手始めに、同年に九州冷蔵(株)、翌60年に高知冷蔵(株)、北国冷蔵(株)、東海冷蔵(株)、駿河冷蔵(株)の4社、65年から66年に九州日冷(株)、大阪日冷(株)、北陽日冷(株)、京都日冷(株)の4社を設立し、分離は約50工場に上った。第2部クレイと合併した。工場が続いた。56※26 1953年設立の製氷会社。69年に神奈川日冷(株)に改組後、2004年に(株)キョ※27 1964年の根室、宮古、小名浜、江名工場に始まり、翌年は釜石、67年に千葉の3長距離冷凍貨物自動車「はやぶさ号」長距離冷凍貨物自動車「ひかり号」※28 経営者の責務を「資本・設備・労働力を有効活用して生産性を向上し、経営の見通しと経済動向を的確に把握して対処すること。特に技術の進歩や生産・消費構造の変化に応じて合理化し、社会的責任の中で企業の地位を上向けること」とした。8. 冷凍事業の構造改革9. 経営合理化と社長交代

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