ニチレイ75年史
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■機械荷役への対応 冷蔵倉庫が大型化・超低温化する一方、荷役作業という大きな課題が残っていた。冷蔵倉庫の入出庫作業は手押し車と人力に依存し、労働力不足が逼迫する中で荷役作業の改善、省力化は急務だった。対顧客面でも大量の貨物を短時間で捌くことが求められていた。 当時の冷蔵倉庫は人力荷役を前提に設計されていた。フォークリフトなど荷役機械の導入にはプラットホームや通路、扉などの大幅改造が必要で、準備にはかなりの期間を要した。機械化は1966年の宇品工場に始まり、既存工場を積極的に改造した。また、品川埠頭、春日、船橋工場など平屋建て機械荷役方式の近代工場も次々と新設し、フォークリフトも100台を超えた。 当社の冷凍業3カ年計画はこうした時代を予測したもので、1961年以降も引き続き設備能力の拡充と近代化を推進した。1961~65年に11万6,000t、66~70年に8万8,000tを加え、70年には計32万3,000tに達し、業界の伸長率を大きく上回った。大消費地に近い港では母船や大型冷凍船から数百~数千t単位での陸揚げも多く、一度に大量の貨物を収容する必要性が高まっていた。白鳥・勝鬨橋両工場は増設で1万tを超え、1968年に稼働した大阪工場は1万4,500tの能力を備えた。 食品の品質を長期間保持するF級冷蔵倉庫(-20℃以下)でも業界をリードした。その構成比は業界平均で1965年に36%、69年に55%だったが、積極的に超低温化に取り組んだ当社は1965年に48%、70年に64%と高い比率となった。船橋工場のフォークリフトによる荷役作業55※24 「食生活の体系的改善に資する食料流通体系の近代化に関する勧告」で、不可食部分を除いて品質や大きさを規格化、急速冷凍して包装し、冷凍のまま消費者に渡す冷凍食品の導入を提言した。※25 1965年以降は大型冷凍アルミコンテナトラック「ひかり号」「すいせい号」なども投入した。第3章 冷力を基盤とする総合食品会社への道7. コールドチェーン化への対応 ■コールドチェーン冷凍事業 所得向上で食生活は豊かになったが、肉や魚は家庭に届くまでに鮮度が劣化しがちだった。冷蔵倉庫が近代化されても輸送中に温度が上がれば劣化は避けられず、食品の品質保持には生産者から消費者までを低温で結ぶ仕組み、つまりコールドチェーンが必要だった。 コールドチェーンは魚介類の高騰や需給構造の変化からも要請された。インフラの整備で冷凍品が増えれば、供給量と価格の安定に寄与すると期待された。 1965(昭和40)年、科学技術庁は「コールドチェーン勧告※24 」を発表した。産地の冷凍施設、冷凍輸送トラック、卸店の冷凍設備、小売店の冷凍ショーケース、さらには家庭用冷凍冷蔵庫と、食品を途切れることなく低温度に保つネットワークを築くものだった。温度上昇を防ぐため、コールドチェーンにおける冷蔵倉庫は迅速な入出庫と大量処理が求められた。旧来の冷蔵倉庫では貨物は直積みされたが、機械化の中で導入したフォークリフトやパレットは作業速度と処理能力を格段に向上させ、コールドチェーン化にも役立つこととなった。 食品の低温化時代が本格化し始め、日本の冷蔵業の設備能力は1965年からの5年間で約110万t、50%も拡大した。大都市を中心に冷蔵設備を持つ流通団地が形成されるなど、生鮮食品の流通は着実に合理化・高度化していった。■長距離冷凍貨物車の開発 コールドチェーンの発達は、冷凍食品の普及の要因ともなった。当社が1959年に開発・投入した長距離冷凍貨物自動車「はやぶさ号」は、機械式の冷凍機で庫内を-20℃に保って九州へも輸送を可能とした。翌年以降も「おおとり号」「つばめ号」※25 を投じ、コールドチェーン化に貢献していった。

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