ニチレイ75年史
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t、21億5,600万円と減る一方で、冷凍事業の総売上高は1961年度の55億7,600万円、65年度の67億5,500万円、70年度の91億3,400万円と増えた。製氷の減収は冷蔵の増収でカバーされ、製氷と冷蔵を合わせた冷凍事業全体としては年々取扱高を増やしていった。 第三は、製氷工場を主体とした小規模工場の分離である。1960年代に10社に上る運営会社を設立し、効率運営を期して地区別に経営を委任した。家庭用電気冷蔵庫第2部54(百万円)10,000■ 販売金額(百万円)■ 冷凍業収入(百万円)■ 販売数量(千t)8,0006,0004,0002,0001960196119621963196419651966将来は有望と考え、翌63年1月、当社を中心に昭和炭酸(株)、昭和電工(株)、東洋製罐(株)、日本硝子(株)や財界の出資で山陽飲料(株)を設立、中国地方5県でコカ・コーラ製品の販売を開始した。 1963年8月に社名を山陽コカ・コーラボトリング(株)に改め、翌年4月、本社と広島工場が竣工。岡山、山口、福山などにも工場を増やし、1979年には大阪証券取引所第二部と広島証券取引所(いずれも現 東京証券取引所)に株式を上場するに至った。 ボトラー統合を先導した同社は、1999年に北九州コカ・コーラボトリング(株)と合併してコカ・コーラウエストジャパン(株)、2018年にはコカ・コーラボトラーズジャパン(株)となった。196719681969(千t)2,0001,6001,200800400001970年度製氷販売の推移※22 食品卸の小網商店が米社の承認を受けて1956年に設立。※23 主要冷蔵品の供給量は、1960年からの8年間で水産物2.8倍、酪農品1.6倍、冷凍食品15.4倍、輸入肉4.9倍で合計でも2.7倍に達し、中でも輸入魚は26.7倍と急増した。6. 冷蔵倉庫の大型化・超低温化、 機械荷役化■冷蔵倉庫1万トン時代を先導 1950年代後半以降、日本の食生活は大きく変わった。1960(昭和35)年から8年間の食品消費量は、米は0.87倍と低下し魚介類は1.17倍とほぼ横ばいだったが、果実は1.7倍、牛乳・乳製品や肉・鶏卵類は2倍を大きく超えた。しかもこれらの原材料は低温管理を必要としたため、冷凍・冷蔵需要※23 は高まる一方だった。需要増を背景に各社は冷蔵倉庫の規模を拡大、業界全体の設備能力は1955年の95万tから60年に145万t、65年に220万t、70年には328万tへとめざましい伸長を見せ、稼働状況も好調だった。column山陽コカ・コーラボトリングの設立 コカ・コーラビジネスモデルは原液供給や商品開発を行う会社と製品の製造・販売を行うボトラー会社からなり、コカ・コーラシステムと呼ばれる。1957年に東京飲料(株)(のちの東京コカ・コーラボトリング(株))※22 が日本初のボトリング会社として営業を開始、全国でボトラーが設立されていった。 1962年夏、日本コカ・コーラ(株)から三菱重工業(株)を通じて、「中国、四国、北海道のいずれかの地域でのコカ・コーラ事業の経営」について当社に打診があった。清涼飲料事業の

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