ニチレイ75年史
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■当社のいち早い対応 当社は、早くから電気冷蔵庫の普及と製氷事業の退潮を見越し、準備を進めてきた。 その第一は設備の合理化と競争力維持のための原価切下げだった。この合理化は設備拡大を旨とする当時の製氷業界の動きとは対照的で、当社の設備能力は業界内で相対的に低下したが、工場稼働率や生産効率は業界水準を上回った。 第二は、製氷から冷蔵への施策転換で、1958年度以降は冷凍業3カ年計画に従って冷凍事業※20 に注力した※21 。その結果、製氷の売り上げは1961年度の132万t、28億8,600万円が、65年度に102万t、23億6,000万円、70年度に74万年1965降、2,500万函台で前後していた水産缶詰の生産は1967年に3,000万函を超え、果実缶詰も65年に初めて2,000万函に達した。輸出も順調で、欧米や東南アジアを中心に1970年は2,200万函弱と5年間で約2.2倍に増えた。国内でも高級缶詰・果実缶詰を中心に安定した伸びを示すとともに、便利な食品としての価値が見直され、生活様式にマッチした調理缶詰の需要が拡大していった。 一方で食品衛生や環境に関する世論が厳しくなり、1969年にはチクロ(サイクラミン酸ナトリウム)問題※19 や輸出マグロ缶詰の水銀問題が発生した。米国のドル・ショックに端を発した輸入制限や水産資源の枯渇問題、さらに物価高騰、労働力逼迫など課題も多かった。 当社は高級缶詰や付加価値の高い調理缶詰の開発に力を注ぐとともに、さまざまな合理化策を進めた結果、業績は1960年代半ばから次第に好転、安定した。取扱高は1965年の30億8,000万円から1970年には36億9,500万円となった。53年項目水産缶詰生産高果実缶詰生産高水産缶詰輸出高8,748 8,103 9,972 10,358 11,359 10,410 12,776 13,893 16,100 16,474 21,835 1960196119621963196419651966196719681969197023,675 26,944 25,333 25,536 25,186 26,252 27,333 31,243 30,743 30,864 32,192 13,963 13,822 14,216 18,863 16,811 20,201 22,220 21,658 22,373 23,958 22,962 (実函:千函)※20 当時、当社では製氷業と冷蔵業、それに凍結業の3業務をまとめて冷凍事業※21 1950年代半ばの東京工場や神田工場、勝鬨橋工場など大型冷蔵倉庫の新増設(冷凍業)と総称していた。が契機となった。19661967196819691970(単位:数量千函、金額百万円)輸出合計332 660 310 625 315 707 341 656 336 767 434 1,034 1,715 3,080 1,658 3,043 1,388 2,638 1,540 3,031 1,701 3,586 1,672 3,695 日本の缶詰生産輸出高缶詰取扱高の推移※19 人工甘味料の一種。発がん性の疑いありとして、1969年に食品への使用が禁止された。主な缶詰製品第3章 冷力を基盤とする総合食品会社への道項目内販数量金額数量金額数量金額数量金額数量金額数量金額1,383 2,420 1,348 2,418 1,072 1,931 1,199 2,375 1,365 2,819 1,238 2,661 5. 家庭用冷蔵庫の普及とその影響■製氷業の斜陽化 日本経済の成長と生活水準の向上に伴って氷の需要は裾野を拡大し、1960(昭和35)年の製氷業界の生産量は600万tを超え、翌61年に644万tと過去最高を記録した。しかしこれをピークに下降に転じ、1962年に585万t、63年は564万tと減少、65年には550万tとなった。特に陸氷は大きく減った。 その原因は家庭用電気冷蔵庫の普及だった。1955年にわずか3万台だった電気冷蔵庫の生産台数は60年に100万台に迫り、63年には300万台を突破した。普及率も1960年の10.1%から65年に51.4%、70年は89.1%に伸びた。氷冷蔵庫が使われていた時代に氷は家庭の必需品だったが、1962年以降、日本の製氷業は斜陽の道をたどった。

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