ニチレイ75年史
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■拡大から過当競争による苦境へ 旺盛な国内需要に支えられて1950年代後半から缶詰市場は順調に拡大し、1955(昭和30)年から61年の間に水産缶詰は2.7倍、果実缶詰も生産数量は2.6倍に増えた。 当社もヒット商品のテンダーツナ※17 をラインナップに加え、1961年に船橋食品工場を稼働させ缶詰生産を増やした。販売面では各地の缶詰特約店※18 と提携を強化する一方、特約店の取引規模が小さい当社は支社を中心に「B店スター会」と称する2次店を組織化し、販路拡大に努めた。本社では販売部から食品販売部を独立させ、食品部を食品生産部と改称、各支社には食品課や販売課を置き、台頭するスーパーマーケットなど新規ルートの開拓やスターブランドを使った宣伝にも努めた。当社缶詰の取扱数量は1955年から6年間で4.4倍と業界の伸びを大きく上回り、1961年にはピークを迎えた。 しかし、これを境に缶詰の需要は頭打ちとなり、設備・生産過剰から業界は過当競争に陥り、各社の採算は軒並み悪化した。さらに輸入自由化や外資企業の進出も加わって、缶詰業界は苦境に立たされた。 1962年、当社の缶詰事業も赤字となった。そのため、翌63年には生産・販売組織を一本化して優良品を主体に価格維持に注力する一方、生産面でもコストダウンに努めた。その結果、1962、63年を底に業績は改善に向かったが、取扱高は伸び悩みが続いた。■いざなぎ景気の中で一進一退 1960年代半ばになると、いざなぎ景気の風を受け、業界全体の缶詰生産は再び拡大基調となった。1962年以沿岸・南米北岸、ニュージーランド沖などでの操業が増えていた。その端緒は1959年、当社が南方漁業開発(株)と組んで「龍田丸(560総t)」をアフリカ・サハラ沖に出漁させ、漁獲したタイをギリシャやイタリアに輸出したことだった。同海域はタイ、モンゴウイカ、タコ、カレイなど南方魚の宝庫で、当社は1962年から67年にかけて葵漁業(株)(のちの新洋漁業(株))の「葵丸(1,474総t)」や山口県漁業生産組合(のちの新生水産(株))の「新生丸(1,952総t)」など大型トロール船を投入し、70年には9,600tを漁獲した。このうち3割をイタリア、レバノン、キプロス、スペインなどに輸出、7割は日本市場に供給した。なお中継地はスペイン領ラスパルマス(アフリカ北西沖カナリア諸島)で、72年には同地に駐在員事務所を設置した。 当社は南米ギアナ(現 フランス領ギアナとガイアナ、スリナム)※16 沖でのエビ底引網事業にも進出した。1959年、子会社・崎吉漁業(のちの新洋漁業)のマグロ漁船「第1源栄丸」を同海域のエビ漁業に転向させて試験操業を行った。その後フロリダ型エビトロール船を建造し、1960年から操業を開始した。水産庁認可の55隻がギアナ沖に出漁した1968年には、同海域の当社エビトロール船は30隻となっていた。1970年の日本漁船によるエビ漁獲高は約2,900tだったが、当社グループは1,380tと47.5%を占めた。1969年にはコペスブラ社(日本名北伯漁業(株))もベレンでエビ漁業を開始し、米国に輸出したほか日本国内で販売した。 大西洋のマグロ事業も継続し、1963年にオランダ領クラサオ島(ベネズエラ沖)にクラサオ開発株式会社(のちのニチレイ・カリブ)を設立。オランダ領セントマーチン島(カリブ海東部)で基地事業を開始した。第2部乗り入れとなった。52※16 エビの繁殖に適したギアナ沖を米国が漁場開発。第1源栄丸は日本漁船初の※17 1960年6月に発売。マグロを原料に、大きくほぐした塊タイプの缶詰。※18 取扱商品や取引条件など特別の約定を結んだ卸商。タコ加工品と発売当時のPOP4. 一進一退の缶詰事業column「味つけたこ」のヒット アフリカ沿岸で獲れた南方タコの輸入で市場は供給過剰に陥り、特に酢だこや煮だこに不向きな小型タコは厄介者扱いされていた。そこで当社は小型タコを使った商品開発を進め、「味つけたこ」を1967年12月に試売。好評のため本格生産に入ると、1968年度に9,000t強・20億2,800万円を売り上げた。従来品の「酢だこ」や「煮だこ」との売れ行きの差は歴然で、商品開発の大切さを改めて認識することとなった。

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