ニチレイ75年史
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■水産加工品の取扱い増大 当社はこのような変化に対応し、水産各社や遠洋トロール漁業者などとの提携をさらに緊密にして北洋凍魚・大西洋凍魚・遠洋マグロの取扱いを増やした。そして凍魚、加工凍魚、水産加工品の生産と販売に重点を置いた。特に付加価値の高い水産加工品には力を注ぎ、多くの製品を開発した。開きイカ、刺身イカ、うなぎかば焼きなどは消費者に喜ばれ、切りイカ、各種フライ類などは業務用ルートで重宝されて取扱いが増えた。 同時に事業所別独立採算制を打ち出し、販売強化と収益確保に努めることとした。凍魚の拡大方針ならびに思惑取引※14 を削減すべく計画生産指定品目を決め、それ以外は注文制に基づく生産・集荷を徹底したほか、値崩れが懸念される大衆魚は在庫を規制した。こうして水産事業は凍魚、加工凍魚、水産加工品を中心に着実に伸びていった。 なお、当社の躍進ぶりは業界も認め、『日本経済新聞』の生鮮食料品相場欄(食鳥)には東京(1967年11月1日)・大阪(1970年1月4日)ともに、当社の取引価格が加味され、食鳥取引の一指標となった。ひっぱく 1960年代、日本人の食生活においては、水産物を中心とした動物性たんぱく質の摂取量が著しく増大した。水産物の家計支出は、1963年度以降の5年間に都市部で1.6倍、農村部では2倍と伸び、その内容も生鮮食品から加工食品へ、大衆魚から中・高級魚へ、冷凍魚から加工凍魚※12 や水産加工品※13 へと質的な変化が見られた。 一方、沿岸漁場の埋立や汚水公害などにより沿岸の漁獲量、特に中・高級魚は減少気味となり、マグロやサケ、カニなど沖合遠洋ものの漁獲も国際規制や資源問題で伸び悩んでいた。スケソウダラ、イカ、サバなど多獲魚の水揚げ増大は練製品や水産加工品、飼料の生産には寄与したが、需給構造の変化、特に中・高級魚の需要増に対応できずにいた。 こうした中で価格安定と需給緩和を狙ったのが政府の水産物輸入拡大措置であり、流通の近代化と食品の低温化を企図したコールドチェーン化勧告だった。その結果、水産品の冷凍化が進み、冷凍魚、冷凍加工原料、冷凍飼料、冷凍食品などの供給が急増した。51※10 豚肉の肩の部位。※11 業務用ルートでは大口需要の団体給食、市販用ルートでは駅ビル立地の直売店などが中心。※12 加工凍魚は、頭や内臓の除去など処理をしたもの。日本ミートの売店風景※13 水産加工品は、カレイ、タラ、アジなどのフライもの、フィーレ(3枚おろし)などの食用加工品や、干しエビなどの乾製品、かまぼこなどの練り製品など。※14 相場の値上りや値下りを予測し、リスクを勘案して投機的に売買すること。※15 動力船でトロール網を引いて大陸棚の魚介を獲る底引網漁。漁場が東シナ海から遠洋に移っていた。第3章 冷力を基盤とする総合食品会社への道3. 水産加工品の拡大■食肉取扱いの積極化 1960年代後半から70年代にかけて食肉(牛肉・豚肉など)の国内需要が伸びる中、1964年、豚肉の需給逼迫による高騰を機に、政府は緊急輸入を実施。以降、日本では食肉の輸入拡大が進んだ。 当社も国内集荷に加え、豚肉(特にボストンバット※10 )の輸入に注力した。また1960年代後半から70年代にかけて各地に畜産販売所を設置し、各支社には畜産課を置いて食肉の取扱いを積極化した。子会社の日本ミートや日冷スター販売(株)を通じた販売にも力を注ぎ※11 、当社の食肉取扱高は徐々に増えた。しかしブロイラーを軸とする当社は、食肉の取扱いは量的にも金額的にもブロイラーには遠く及ばず、業界内のシェアは微々たるものだった。■魚の高騰と需給の変化 日本経済の発展は、一方で消費者物価の高騰を招いた。特に値上がりしたのが魚介類などの生鮮食品で、魚の産地卸売価格は1960(昭和35)年を100とすると63年に134、65年は158と高騰した。政府は63年頃から生鮮食品の価格安定化に取り組んだが、騰貴は収まらなかった。それは水産物の需給構造の変化が要因だった。■海外事業の展開 漁船の大型化などで遠洋漁業が盛んになる中、日本の遠洋トロール漁※15 は1960年代から発達し、アフリカ

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