ニチレイ75年史
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船橋に設立した。翌61年には資本参加していた香川県の江橋産業を西部日冷農産(株)(のちの四国配合飼料)に改組し名古屋飼料にも資本参加、沼津の日東精麦に製造・販売を委託した。同年度末に配合飼料月産1万1,000tの供給体制を固め、全国購買組合連合会系統団体や養鶏団地などに販路を拡げた。 畜産品の加工・販売では、1961年、千葉畜産工業(株)に資本参加(約4割出資)した。同社は千葉県と千葉県販購連※7 、地区農協を主要株主とする畜産物の加工・販売会社で、経営難に陥ったため、県と富士銀行(現 みずほ銀行)・丸紅飯田が当社に出資を要請していた。当社は同社の食肉処理場、枝肉加工施設、販売網をパイロットプラントとして活用する考えだった。さらに当社は、畜産品の販売会社に育成すべく、堀田商店と共同出資で日本ミート(株)を設立、鶏卵マーケット向けには日冷鶏卵市場(株)を設立した。こうして特産部の事業の骨格は完成し、取扱高は1960年度の7億4,100万円から翌年度は19億6,400万円と増大した。 しかし、岩戸景気が終わり、1962年頃に景気が後退すると、畜産業界内の過当競争や売掛金の回収問題で、インテグレーション構想は大きな壁に直面した。事業展開が急すぎたこともあり、当社は1962年から65年にかけて畜産・飼料事業の不採算部門を整理する一方、食鳥専門の事業場を熱田や串本などに開設するなど事業の再構築に取り組んだ。この間に東京オリンピックに向けて景気が回復すると、停滞していた取扱高は1964年度に29億4,800万円と拡大に転じ、65年度には40億8,200万円と急伸した。その主軸はブロイラーとその加工品であった。日冷農産船橋飼料工場外観第2部済連〉)。① 需要が旺盛で収益も安定しているブロイラー※8 を軸に食鳥の加工販売体制を強化する。② 国際化に対応して輸入を増やし、国産分とともに食鳥・食肉とその加工品の内販体制を拡充する。③ 飼料販売は日冷農産工業と一体となり、取引内容の改善に努める。④ 畜産物の処理加工は子会社に担わせ、当社は販売面に注力する。 この軌道修正により畜産部は農業的経営から脱して商事的性格を色濃くし、商材の買付販売に注力していった。 調達面では、国産素材を有利に集荷するためブロイラー生産者に良質のヒナや飼料を供給するなどした。また海外情報の収集を継続していた当社は1968年、他社に先駆けてハンガリーなどの共産圏から年2,000tのブロイラーを輸入すると、72年にはブルガリアから輸入した大量の鶏肉を日本ハム(株)に供給し、輸入食鳥の取扱いトップとなった。 販売面では、卸業者や鶏肉専門店のほかに冷凍品はデパートなどに重点を置いたが、1960年代後半から70年代に台頭してきたスーパーマーケットや外食産業にも力を注いだ。当社のブロイラー事業は量・額とも年平均で30%を超える伸び※9 を示し、業界内でのブロイラーのシェアは日本ハムに次いで2位を保った。市況も堅調に推移、1970年度のブロイラーの取扱額は畜産部門の50%を超え、事業の大きな柱に成長した。50※7 千葉県販売購買農業協同組合連合会(販購連、現 経済農業協同組合連合会〈経※8 肉用若鶏。ブロイラーと総称するが、元々は体重別に3区分された食鶏の最も小型のものを指す。※9 1966年の5,661tから1970年の1万8,963tへと高い伸びだった。鎌ヶ谷試験所の回転鶏舎■ブロイラー事業の拡大 畜産事業の基盤を固めた当社はインテグレーション構想を練り直し、以下の運営方針とした。

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