ニチレイ75年史
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■長期5カ年計画の策定と機構改革 1960(昭和35)年に成立した池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長を背景に国民1人当たりの消費支出は10年で2.3倍に拡大した。1968年に日本のGNP(国民総生産)は資本主義諸国の中で米国に次ぐ第2位となり、所得水準の上昇から、家庭に三種の神器(白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機)が浸透していった※1 。 経済が拡大する中、冷凍業界や水産食品業界では技術革新や設備増設が相次いだ。当社も長期5カ年計画を策定、冷凍、水産、食品、畜産の事業で発展を目指し、業容一新を図ることとした。そのため、1961年初頭に本社機構の拡大強化を実施し、これに伴う積極的な人事を進めた。 本社機構では企画部、技術部、食品販売部、食品生産部、東京冷凍部、東京営業部を新たに設置し、17部(室・所を含む)37課に膨らんだ。それとともに役員の業務分担を大幅に変更したが、1月の中谷副社長の急逝で三宅常務と松崎常務が副社長となり、分担を一部変更した。■インテグレーション※3 構想の急伸と頓挫 食の洋風化傾向などから、日本人が摂取する動物性たんぱく質は水産物を中心としながらも今後は畜肉に向かうと認識していた当社は、1960年6月、特産部を設置(63年8月、畜産部に改称)した。そして投融資形態※4 をとっていた水産部門が1950年代に素材調達に苦慮した経験を踏まえて、畜産部門では米国で発達していたインテグレーション方式を選択することとした。とはいえ養畜まで企図したものではなく、飼料を生産・販売、種禽・種畜を供給し、集荷した食鳥、鶏卵、畜肉を加工・販売する事業体系を目指していた。同年8月には鎌ケ谷試験所を開設(1963年に同畜産試験所に改称)※5 。採卵・種豚の育種と改良、孵卵実験に取り組み、新飼育法として回転鶏舎による飼育実験も行った。 飼料については、原料の調達・生産は子会社、当社は販売を担うとの考えから、1960年6月、「日冷農産工業(株)※6 」を ふ■禍転じて福と為す~牛肉のスポット輸入 戦後、当社は進駐軍に冷凍魚介類や肉類などを供給して外貨を得ていた。肉類は取引先から調達していたが、1954(昭和29)年に駐留軍が米国産に切り替えたため打撃を被った。 取引を通じて良質かつ安価なオセアニア産牛肉に注目した当社は、1956年、試験的にオーストラリアから牛肉を輸入。翌57年には、ニュージーランドから大量の冷凍牛肉(1,718t)をスポット輸入した。日本の輸入量が2,000t台だったところに各社のスポット輸入が加わって国内価格が暴落※2 、政府は1958年に食肉輸入商社協議会を発足させ、外貨割当制で輸入食肉の管理を始めた。当社はこのスポット輸入で大きな損失を出したが、割当制の下で取扱いが制約される中で輸入枠は実績を基に算出されたため、当社の枠は一躍4位となった。以降、7.8%の枠を維持し、食肉輸入業者としての地位を確保した。49※1 白黒テレビの普及率が9割を超えたのは1965年、電気洗濯機は70年、電気冷蔵庫は71年だった。2,000tが輸入された。※2 1957年に参入が相次ぎ、当社を含む91社によって前年の10倍にあたる2万※3 川上から川下、飼育から処理・加工、物流、販売までを一貫して手がける方式。家庭用テレビの普及 ©️kyodonews/amanaimages※4 当社水産部門は提携漁業会社に投融資する方式を採っていた。※5 温室などを設置し農産品も試した後、畜産事業に絞り、インテグレーションの見直しで1967年廃止。※6 1970年の飼料部門集約の際に西部日冷農産に吸収された上、再び日冷農産工業を名乗った。第3章 冷力を基盤とする総合食品会社への道1. 経営多角化時代に向けて2. 畜産事業のスタート 第3章 1961(昭和36)年~1972(昭和47)年冷力を基盤とする総合食品会社への道

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