ニチレイ75年史
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■役員の増強と機構改正 事業が拡大する中、当社は林前社長らの退任後も役員を選任していなかった。そこで、1955(昭和30)年上期の役員再選時に取締役3人(北野七郎、下田清、石井武男)を選任、三宅と松崎が常務に昇格した。その後、1956年7月に三好常務、1959年3月に草野副社長が退任し、新たに取締役2人(武谷巖、高橋金吾)を選任、中谷常務が副社長に就いた。 岩戸景気と呼ばれた経済成長期にあって、当社も事業の急拡大で対処すべき課題は多かった。1960年9月に役員が12人に増員されると、取締役3人(朝長嚴、山岸利治、江副學)を選任、北野、下田、石井が常務となった。 機構面では1955年4月、投融資業務の増大、新規事業に対応して、投資課、海外課、イソフレックス課を新設。1956年には、農畜産課の新設、横浜・京都の2支社の復活、管理部から企画部・監査室の分離を行った。また食品事業の展開も進んだため、1957年3月、食品部門の母体となる食品課を設置し、事業部と東京営業部(のちの東京支社)を独立させた。 1959年4月には事業部門を5つ(事業部(冷凍・運輸・機械の各課)、販売部(販売第一・販売第二・貿易・宣伝市場の各課)、食品部(食品課)、海外部(海外課)、イソフレックス課)にら、当社は1961年9月、イソフレックスの生産を中止、翌62年には大阪と東京の工場を閉鎖してイソフレックス事業から撤退した。 一方、アセテートフィルムに関しては研究を進め、合成皮革「ヤングキッド」や粘着シートを開発した。羊皮風のヤングキッドは靴の甲革や中敷きとして好評で、粘着シートは剥離紙付き装飾壁紙として需要が多かった。当社は成長に期待し、1961年3月、共同出資で粘着シート専門の「モダン・プラスチック工業株式会社※43 」(当社50%、三立40%、三光産業株式会社10%の出資比率)を設立。1963年に三光産業の、1964年に三立の保有株式を買い取り全額出資の子会社とした。同年8月に工場経営を同社に委譲し、1966年8月には樹脂販売事業も委ねることとなった。再編した。独立採算制として運営管理は各事業部門に委ねられた。1960年3月、イソフレックス課を樹脂加工課に改称、同年6月には畜産事業を強化するため特産部を新設した。 また、1959年には業務改善や工夫提案に褒賞金をもって報いるという提案制度が始まった。「従業員の創意工夫の気風を醸成し、改善の提案と実施を促進し、経営合理化を図るとともに、従業員が経営に関心を持つようにする」目的で、「従業員の士気向上、職場のモラル向上」も企図した。初年度だけで80件余の提案があり、業務改善に資するところも大きかった。47※43 同社は業界中堅に成長、1995年1月に業界大手・リンテック株式会社の傘下※44 このとき5割を無償交付とした。各増資時にも1~2割の無償交付を実施、株主に入った。に報いている。※45 1960~61年、冷凍工場新増設17件、食品関係では工場新設3件と系列化投資10件、畜産や海外などへの投資14件に及んだ。第2章 戦後日本の復興に製氷・冷凍事業と水産・食品事業で貢献10. 経営基盤の強化■相次ぐ増資と社債の発行 1949年3月と10月の増資で当社は資本金を5億円としていた。1953年5月の第3回増資で資本金は10億円に達したが、経営の多角化で資金需要は増勢の一途をたどった。そのため、1955年7月に6億円、1956年12月に4億円※44 、1958年12月に10億円、1960年12月に15億円と、相次ぐ増資で資本金を45億円とした。 この頃になると資産の膨張が目立った※45 。冷凍工場や食品工場の新増設で1960年度末の総資産は213億円(前年比50億円増)に達し、売上高と肩を並べた。固定負債も58億円(同15億円増)を超えて資本構成は急速に悪化した。1961年度も負債は増え、自己資本比率は35.5%に落ち込んだ。 この是正のため1962年8月に22億5,000万円の半額増資を行い、株主には1割を無償交付し、当社の資本金は67億5,000万円となった。経済成長の追い風の中で資本金は1955年からの7年余りで7倍近く増大し、好況で企業の株価が上がる中、成長を期待された当社の株価も上昇傾向にあった。 このように増資を繰り返してもなお設備資金は不足気味に推移したため、当社は社債発行と銀行借入金で賄った。第1回社債発行は1949年12月から50年4月にかけてで、工場財団を担保に計5億円を3回に分けて発行し、設備投資と借入金返済を賄った。第2回は1951年で3回に分けて計3億円を発行、1954~57年の第3回起債では6回に分けて計12億円を調達した。 財務状況の悪化から発行ペースは減速したが、1958年

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