ニチレイ75年史
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■イソフレックス技術の導入 経営合理化を進める中、資材改良も重要な課題で、その 1960年には冷凍食品がまとまった売上高となり、ようやく一つの事業として全社売上高の中に登場した。だが、この年の冷凍食品の売上高3億7,400万円は全社売上高216億3,300万円の1.7%にすぎなかった。その比率は上昇していくが、売上高や利益で社内に貢献するまでにはまだ時間を要した。天然の冷凍庫に貯えられた南極観測隊の冷凍食品第2部南極観測を支えた。一つが冷凍工場の防熱材だった。冷凍工場は防熱用に多量の炭化コルク※40 を使っていたが、当時、炭化コルクは供給不足で品質も低く工場再建に支障を来していた。新しい防熱材を開発すべく実験・試作をしていた折、1952(昭和27)年、東京ゲルム株式会社からプラスチックの防熱材、イソフレックスを紹介された。 イソフレックスはスウェーデンで開発され、米国・イソフレックス社が商品化した樹脂で、炭化コルクに比べて施工性にやや難はあるものの軽量で防熱効果に優れていた。そのため車両、船舶、建築物の断熱などにも広い需要が見込まれた。当社は1953年12月、同社と技術援助契約を締結、1955年より東京と大阪のイソフレックス工場で生産を開始した。46※37 64カ国が参画した研究プロジェクト。国際極年(極地気象などの共同観測)から対象範囲を地球規模に拡大。気象、地磁気、電離層などの調査観測で多くの成果を残し、南極条約に繋がった。※38 初代南極観測船。ソ連向け耐氷貨物船として1938年に日本で建造、戦時事情で帝国海軍が買い上げた。戦後は巡視船などに服務。退役後は船の科学館で公開・静態保存されている。※39 1962年の第6次観測隊で中断。1965~82年(第7~第24次)は後継船「ふじ」が※40 コルク樫の表皮を蒸し焼きにして炭にしたもの。防熱材の一種で断熱・耐腐食・防虫などに優れた性能を持つ。建物内外の温度差維持が必要な冷凍工場で多用された。※41 酢酸セルロース製のフィルム。当時は写真フィルム支持体などに需要が多かった。※42 テープ状のフィルムに粉末磁性体を塗布・蒸着し、磁気で音声や映像、データを記録。1970年代以降はカセットテープとして大量に使用された。イソフレックス9. 断熱材の開発■イソフレックスからアセテートフィルムへ イソフレックスの需要は有望だったが、原料箔(アセテートフィルム※41 )に問題があった。国産の原料箔が予想外に低品質だったため、イソフレックス社の姉妹会社であるスウェーデンのセロプラス社から原料箔の製造装置を導入。1956年6月、技術指導を受けて神奈川県中郡大野町(現 平塚市)にプラスチックフォイル工場を建設、原料箔の自社生産を始めた。 アセテートフィルムは透明度と強度に優れ、平滑で光沢があり、耐熱性・電気絶縁性・印刷適性に富むなど多くの特色があり、「プラステート」の名で外販した。美術印刷や電話交換機コイルの絶縁、包装材などと用途が広く、磁気テープ※42 用に需要の増加も見込まれた。 しかし、技術革新のテンポは急で、各種の優れたプラスチック防熱材が市場に現れ、施工面の改良も進んだことかcolumn南極観測隊に冷凍食材を提供 東西冷戦が続く一方、地球規模で科学的観測をする機運が盛り上がり、1957~58年の18カ月間に国際地球観測年※37 (IGY)が展開された。日本はまだ国際社会への復帰前だったが、米国やソ連の後押しもあって南極地域観測事業に関わることになった。 観測船を新造する費用と時間がない日本は、耐氷船である海上保安庁の灯台補給艦(宗谷)を改造して準備を終えた。1956年11月、南極観測船「宗谷(2,736総t)※38 」で東京港を出航した第1次観測隊は、翌年1月に南極に到着した(途中まで東京水産大学の練習船「海鷹丸」が随伴)。昭和基地を東オングル島に開設し、隊員のうち11人が越冬した。 当社は越冬食料計画に協力した。南極までは長い船旅で、水が潤沢にはない南極は過酷な環境だった。気温は低いが、夏場は寒さが緩んで食品が劣化する事情もあった。長期間、新鮮さを保って手軽に食べられるのが冷凍食材だった。当社は冷凍野菜や茶碗むしの他、すしセット、うなぎ蒲焼など69種、およそ20tの冷凍食材(魚介・鶏肉・野菜・果物等)を南極越冬隊に提供した。これは大変好評で、第2次・第3次の観測隊※39 でも計画から供給まで当社が全面的に関わり、南極観測隊を食事の面で支えた。

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