ニチレイ75年史
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■冷凍食品事業の形成へ 市販用で浸透を図り業務用で売り上げを増やすことで、当社の冷凍食品は徐々に販路と売り上げを拡大していった。需要増に伴い、生産設備の改善も進んだ。1953年には東京工場にアメリオ式コンタクト・キャビネット・フリーザー2台を設置するとともに、産地工場の凍結設備を通風式急速凍結装置に改造したり、ユニットクーラー方式を採用するなど急速凍結の体制も整えていった。博多・吹田・船橋の新設食品工場での生産も始めた。 当社はPR活動や宣伝販売の場として百貨店に着目した。当時、百貨店は新しいものを積極的に取り入れ、食品や日用品の品揃えを充実させていた。凍果ジュースで百貨店との結びつきを深めた当社は缶詰や冷凍食品などを百貨店に納入するため、1954年1月、直販会社の藤屋を改組してユキワ食品株式会社を設立した。西武百貨店(現 西武池袋本店)と東横百貨店には既に売場があったが、ユキワ食品は1955年2月、米国から輸入した最新型の冷凍ショーケースを並べて当社専用の広い冷凍食品売場に拡充した。これに刺激されて三越本店などの百貨店からも売場の設置要望が相次ぎ、1957年には都内のほとんどの百貨店が当社冷凍食品の売場を設けた。関西でも大丸心斎橋店に売場を開設したのに続いて百貨店が売場を設け、百貨店による販売網は急拡大した。「現代料理うまいもの展」での冷凍食品展示と料理の実演即売会 1955年2月から翌年1月の売上高は4億5,000万円程度だったが、対面販売を通じて冷凍食品の品質や利点、日冷のイメージを消費者に浸透させたのは大きな収穫だった。 また、冷凍食品販売用ストッカーの物品税減免運動も冷凍食品の普及を促した。冷凍食品の販売にはストッカーが不可欠だったが、高率の物品税が普及の妨げとなっていた。当社は大手水産各社や業界団体(大日本水産会※34 )と共同で各省に陳情を重ね、1958年、減免に成功した。これにより冷食売場の整備が急速に進み、スーパーマーケットの台頭と相まって冷凍食品時代の幕開けとなった。し、学校給食を中心に需要を伸ばした。当社は業務用ルート(学校・病院や工場など団体向け)への販売強化のため、1954年5月、マルイチ食品を設立した。1955年に生産を始めたスチック※35 は好評で、中でも三色スチックはタラ、サケ、イカなどの原料に野菜類を加え、彩り豊かな洋風スタイルが児童に受けた。1958年の生産量は1,281tと大きく伸び、当社冷凍食品生産量の実に76%がスチック類で占められた。 折しも団塊の世代が小学生だった時代で、児童数は多かった。当社は需要に対応すべく団体給食用調理冷凍食品の製品規格を統一するとともに、明石町食品工場に自動生産機器(バタリン・ブレッディングマシン=パン粉付け機、スチック・ブロックカッター=定量裁断機)を設置して流れ作業による量産体制を整えた。 冷凍食品は常温商品とは異なり、冷凍運搬車による配送業務を伴う※36 。当社は1961年2月に日冷スター販売株式会社を設立し、ユキワ食品およびマルイチ食品の業務を継承させた。関西でも1958年11月、大阪水産物直売(当社10%出資)との共同出資でニチレイ食品販売株式会社(1961年4月に当社全額出資)を設立した。45※34 1882年設立。水産業の振興と経済・文化的発展のため、生産・加工・流通・小売業者などで構成。※35 スティック状のフライ類で当時は「スチック」と称した。※36 常温食品が主力の問屋は冷凍運搬車がないこともあり、販売会社(販社)は商流に加えて保冷車による物流も担った。第2章 戦後日本の復興に製氷・冷凍事業と水産・食品事業で貢献三色スチックの製造風景■販社の整備と三色スチックのヒット 冷凍食品を支えてきたのは業務用商品だった。品質・規格が一定である冷凍食品は短時間に大量調理する給食に適

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