ニチレイ75年史
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■冷凍食品の普及を推進 市販用冷凍食品の始祖となった天ぷらセットや茶碗むしも、日冷凍果ジュースと同じ頃に開発されている。 天ぷらセットは、エビ、イカ、アナゴ、キスなどの下拵えした冷凍水産加工品をセットにしたもので、1952年秋に東横百貨店で販売して人気を博した。 茶碗むしは初の調理冷凍食品ともいえるもので、1953年からフライセットやハンバーグなどとともに試作を開始。翌54年から生産を始め、55年以降に百貨店で本格的に販売した。 当時の日本では「冷凍した食品は品質が劣っておいしくない」との根強い先入観※33 があった。これを払拭するため、当社は各地で料理講習会や試食会を積極的に開催した。1961年には東京・青山に日冷スターショップ(売店)を併設した「青山日冷料理教室」を開設(1977年閉鎖)。東京・関東クラブで催した試食会には文化人(安倍能成・大内兵衛・嘉治隆一・小宮豊隆・志賀直哉・長与善郎・武者小路実篤・和辻哲郎)を招いて冷凍食品を使った献立を披露し、注目された。■黎明期の冷凍食品 戦後間もない1946(昭和21)年9月、当社は白石冷凍工場の一角に簡素な実験研究室を設けて食品の研究開発に着手した。しかし施設や器具も不十分で、試作の域を出なかった。また一時期は冷菓事業を手掛けた。「レイカ」の名称で製造・販売し、当社の資金繰りに貢献したが、1949年に中止し、製氷事業に専念することとした。 冷凍食品事業に本格的に取り組み始めたのは、1950年頃からだった。熱で包装袋の口を密着させる米国製ヒートシーラー(ドベックマン社製)を輸入し、翌51年には冷凍食品包装用セロハンを米国デュポン社から取り寄せて試作研究に着手した。 最初に手掛けたのは冷凍果実で、1951年に焼津缶詰工場などで冷凍ミカンと冷凍イチゴを試験生産した。翌1952年には段ボールに入った冷凍ミカンを米国に輸出した。 冷凍イチゴは国内での売れ行きが芳しくなく、在庫消化に苦しんだ。試しに東京・聖心女子学院のバザーで凍果ジュースとして販売すると好評だったため、1952年6月、東京・渋谷の東横百貨店(現 渋谷スクランブルスクエア)で第2部冷凍イチゴ、冷凍ミカンをジュースにして販売した。他の百貨店からもジューススタンドの開設依頼が相次ぎ、1954年から種類を増やして出店も拡大。「日冷凍果ジュース(別名:ブルブルジュース)」として親しまれた。44※31 青森県出身で衆院議員、八戸商工会議所会頭、青森県水産業会長などを歴任。※32 製造設備や冷蔵設備を有する母船と船団を組み、漁獲物を母船に水揚げする。※33 戦時中、たんぱく質の欠乏対策から政府は北海道の凍魚を内地へ配給した。だが緩慢凍結で保存状態も劣悪だったため食感や臭いがひどく、「冷凍品はまずい」との悪評が人々に定着した。百貨店のジューススタンド青山日冷料理教室の授業風景8. 冷凍食品業界を先導column大洋冷凍母船の委譲 1950年代半ばに、大洋冷凍母船(株)の委譲が問題となった。同社は1953年3月、夏堀源三郎※31 が地元と損保各社の協調出資で設立し、当社とはサイパン丸の南方マグロの試験操業から提携してきた。翌54年、同社は北洋鮭鱒事業への進出に際し、資金調達(増資額1億5,000万円)と漁獲物・製品の販売で当社に協力を求めた。当社は増資額の一部(2,000万円)を引き受けて支援した。だがサイパン丸の故障などから操業は不振に終わり、約1億7,000万円の赤字が生じた。当社は役員2人を送り、10億円余を資金投入し、建て直しを図った。 母船・旭光丸(7,000t)を購入し、独航船※32 25隻、調査船4隻からなる船団が出漁しようとした矢先、同社の資本関係が問題となった。当社は現状維持を求めたが、漁業を自営しない企業の傘下での操業は好ましくなく、3大漁業会社(日魯・日水・大洋)を中心に再編すべきとの河野一郎農相の意向もあり、1955年11月、当社は同社を日魯漁業に移譲した。 その影響は大きかったが、漁業への進出意図があると見られることは、かえって当社の不利益を招くとして、農相の要請に応じることとなった。当社の漁業参加は商材確保が目的であり、総合食品事業の一環にとどまることを示した。

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