ニチレイ75年史
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■インブラッペの設立とコペスブラの買収 米国市場偏重のリスクを避けるため、大西洋の漁業資源と南米大陸の市場性に着目した当社はブラジル事業にも注力した。1950年代のブラジルは北東部の大干ばつで食料難に陥っていた。1956年の「第13海幸丸」の操業成果はブラジル政府から注目され、大統領からマグロ船10隻の操業特別許可が下りた。これを機にブラジル政府との業務提携が進み、当時、食料問題解決のため建設中だった魚市場の冷蔵倉庫を、当社がその内部設備を受け持つことを条件に無償貸与された。1957年1月、当社の全額出資でレシフェにインブラッペ(ブラジル冷蔵)を設立。冷蔵倉庫(製氷20t、凍結10t、冷蔵630tなど)は1958年4月に稼働した。 ロブスター漁にも参入したインブラッペは、1958年に経営不振の捕鯨会社コペスブラ(北伯漁業)を買収して捕鯨も手掛けた。1960年には漁業部門をインブラッペからコペスブラに移管した。 しかし、ブラジル政府との無償貸与契約に基づいて設立されたインブラッペに対し、ブラジル政府は契約無効を訴え、1962年には軍隊による接収通告が発せられるなど、事態は急変した。インブラッペも人身保護仮処分の提訴を行うなど財産保全に努め、1965年に勝訴はしたものの会社は疲弊した。設備は劣化し業績も悪化したため、当社は1965年2月にマグロ事業を中止し、1967年には問題の冷蔵倉庫をブラジル政府に返還した※30 。■米国でのマグロ加工事業 米国向けのマグロは、そのほとんどが缶詰原料に使用されるが、米国漁船によるマグロの漁獲高によって市況が左右されたため、日本から輸出するマグロの価格は不安定だった。また、輸出価格の決定や要求される品質面でも日本企業は不利な立場にあった。 その打開を模索する中、米国マサチューセッツ工科大学食品工学部でマグロの多用途利用を研究中の鮎川弥一(当社技術顧問)が、缶詰原料には不向きとされたメバチマグロやカジキ類を原料としたツナ製品の試作に成功した。当社は1957年、ボストンに全額出資(資本金10万ドル)のツナ・プロダクト社を設立、冷凍食品(ツナソーセージ、ツナハンバーガー)の製造・販売を始めた。 滑り出しは好調だったが、米国政府当局から添加物が食品衛生法に抵触する疑いがあるとして一部地域で販売停止る缶詰工場がある米領サモア※28 に係留して冷凍基地とし、中小漁船約30隻から集荷したマグロを工場に供給した。この基地漁業が、原爆マグロ問題などで困窮する日本のマグロ漁船に遠洋漁業の機会を提供し、従来の母船式漁業に代わる新たな基地事業として注目を集めた。 一方、1950年代半ばに入って漁場の拡大とともに船内の凍結設備が発達すると、漁獲のたびの帰港は非効率となり、当社は洋上輸出という一種の中継貿易※29 を始めた。その背景には、当時の米国が外国漁船による直接水揚げを禁じており、最寄りの第三国を中継して輸出する必要に迫られたことがある。1956年7月、柳下漁業と提携して「第13海幸丸」を出漁させ、ブラジル・レシフェ港に水揚げした後、洋上輸出した。 直接の水揚げが可能なヨーロッパでは、同年12月、神奈川県水産試験所の「相模丸」が大西洋で漁獲したマグロをイタリアに輸出した。1958年からは操業効率を高めるためラスパルマス(アフリカ北西部・カナリア諸島)を中継地とする洋上輸出に移行。トリニダード島(南米北東部)などにも洋上輸出の拠点を広げた。 1963年にはセントマーチン(カリブ海東部)でも基地事業を開始し、当社のマグロ事業は1960年代半ばにピークを迎えた。処分を受けたほか、表示問題で提訴もされた。粗悪な類似品による混乱などもあって、採算は悪化。1962年11月、マグロ缶詰の老舗デュレニー・インダストリー社にツナ・プロダクトの経営を譲渡し、当社は米国のマグロ加工事業から撤退した。43※28 南太平洋・ポリネシアにある米国の自治領。サモア諸島の東半分で 西半分は独立国のサモア。※29 貨物を第三国にいったん陸揚げし、加工するなどして再輸出する取引で、売買差益などで外貨獲得の手段となる。売買契約当事者となる点で通過貿易と異なる。香港、シンガポールが有名。なお、洋上輸出の中継地の中で、サモアやセントマーチンなど大規模化したところは基地と称した。※30 捕鯨と船舶代理店、ベレンでのエビ、各地のアセロラなど変遷しつつブラジル事業は継続。事業再編に伴いコペスブラは1994年、インブラッペは1999年に清算された。第2章 戦後日本の復興に製氷・冷凍事業と水産・食品事業で貢献インブラッペ外観

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