ニチレイ75年史
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■魚肉ハム・ソーセージ事業の進展 総合食品化施策を採っていた当社も、1955年8月、明石町工場内で子会社のマルイチ食品が魚肉ソーセージの生産を開始、同年10月には神戸のエム・シーシー食品株式会社※25 に日産1万本のツナソーセージの生産を委託した。翌1956年3月、マルイチ食品の生産事業を継承して明石町食品工場に日産3万本の生産設備を設け、東日本への供給基地とした。 また同年、当社はエム・シーシー食品を子会社(出資比率58.3%)化し、1958年2月に同社の生産工場を賃借して当社の神戸食品工場を設置して品質と生産を自社管理とした。 ツナソーセージとプレスハムの他、ベビーハムやウインナーソーセージなど品揃えを増やした当社は、販売面でも学校・工場の給食ルートなど新規開拓に取り組んだ。製造・販売両面の努力で、1955年当初は600t台だった生産量は1960年に3,000tを超え、大都市を中心に定着していった。 1960年当時、全国に25の魚肉ハム・ソーセージ工場を擁する大手5社(大洋・日水・日魯・日冷・極洋)の生産量は日産620万本に達し、全国の約7割を占めた。当社は1961年、船橋食品工場の稼働で生産能力は日産60万本に増え、シェアは5%となった。だが業界は過当競争となり、乱売などから利益率の低下を招いた。■ドルを稼ぐマグロ 1950年代、日本経済の課題は輸出拡大だった。当時、輸出の中心は繊維製品など軽工業だったが、水産物、中でもマグロが外貨獲得に一役買っていた。 1947(昭和22)年にビンチョウマグロなどの輸出を再開していた当社は、物価統制が解除された1950年から冷凍水産物の輸出を本格化した。柳下漁業株式会社などマグロ漁業会社との提携を強化するなどして国内集荷体制を整えるとともに、海外マグロ市場の開拓、大手パッカーとの連携強化など、米国中心に輸出※27 の増大に努めた。この結果、1950年に2億300万円だった当社の冷凍水産物輸出額は1954年に10億円を突破した。■洋上輸出と基地事業 当社は1955年4月、米国・缶詰メーカーのヴァンキャンプ・シーフード社とのマグロ供給契約を締結した。同年5月、冷凍運搬船「サイパン丸」(4,000総t)を同社が経営すじめ1,000隻以上の漁船が被爆した。“死の灰”を浴びた漁獲物は廃棄されたが、水爆実験とは無関係なマグロも「原爆(水爆、放射能)マグロ」との風評被害を受け、遠洋マグロ市況は低迷した。このため、水産大手各社は安価なマグロを主原料としたツナソーセージの商品化を急ぐことになる。各社の魚肉ハム・ソーセージの生産量は、1955年の9,000t台から急増して1960年には10万tを超えるまでになった。魚肉ソーセージの製造風景第2部42※25 1954年設立の缶詰・レトルト・業務用冷凍食品などの製造会社。1923年創立の水垣商店が起源で、日本冷蔵の製品を受託生産。1978年までは当社の生産子会社だった。※26 鯨の下あごから腹までのじゃばら状になった部位の、脂肪(畝・うね)の内側にある赤い部分。畝と須の子が一体になったものは畝須、クジラベーコンと呼ばれた。※27 1955年ごろまでは、日本近海で獲れたマグロを買い付け、氷蔵あるいは沿岸冷凍工場で凍結した上で船積みするという輸出形態が一般的だった。V型ソーセージとデラックスハム7. 海外事業への進出■V型ソーセージのヒット  当社は1962年、V型ソーセージやデラックスハムを発売した。原料にクジラ須の子※26 を用いたV型ソーセージはヒットし、魚肉ハム・ソーセージの生産量は1964年に1万tの大台に乗った。1966年以降は業界全体に陰りが見えて生産量が停滞する中、当社も1966年の1万2,800tをピークに、その後は1万2,000~1万t台で推移した。 捕鯨禁止の世界的潮流でクジラ須の子の確保が難しくなると、当社はスケトウダラや小アジのすり身を原料とする製品を開発した。「北洋工船すり身」も加え、原料調達も安定した。

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