ニチレイ75年史
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■総合食品工場の建設 総合食品化施策は、大量生産・大量販売が可能な商品、付加価値が高く成長力のある商品の提供を基本とし、加工工場が重要だった。当社は1956年1月の明石町食品工場を皮切りに、米子、神戸(賃借)、白石、吹田、博多、船橋の自営食品工場を新設する一方、量産に不向きな商品を担う工場の系列化や子会社の設立を進めた※16。 中でも1961年1月に稼働した船橋食品工場は、規模と設備において食品加工事業を牽引し、魚肉ハム・ソーセージ、缶詰、冷凍食品を生産する総合食品工場だった。首都圏や東日本の需要を賄うための同工場は、4万5,627貫体制確立を目指して、漁労から加工販売へと重点を移し始めていた。 木村社長は、就任時から冷力利用による食品事業の確立へ向けて、缶詰事業の再開、大資本漁業会社や関係漁船との提携強化、農畜産事業分野へのアプローチ、冷凍食品の開発など多角化への準備を進めてきた。そして、豊かな食生活が求められ始めた1950年代半ば、総合食品会社を目指す環境は整ったものと判断し、多角化策を推進することとした。その施策は次の5点に要約できる。①缶詰、魚肉ハム・ソーセージ、冷凍食品などを中心とした食品加工事業の推進②凍魚・加工凍魚とこれに関連する水産加工事業の拡充③畜肉飼料分野への進出④マグロを主体とした海外基地事業の展開⑤関連する企業の系列化ないしは提携強化 これらの事業は原料の集荷・加工、冷蔵保管また販売面において密接に関連しており、冷凍依存型の経営から総合食品会社への脱皮を目標としていた。佐世保工場 ※中央は木村社長第2部える構図は変わらなかった。㎡の広大な敷地に全長240mの平屋建て2棟を並べ、原料解体から製品搬出までの工程をベルトコンベヤーで結んでいた。チョッパー7台、サイレントカッター16台、定量自動充填結紮機30台、連続殺菌機4台、自動包装機20台など最新設備も導入した。当時最大だった吹田食品工場(魚肉ハム・ソーセージ日産7万本)の約6倍の生産力(船橋は日産40万本)を有し、規模を拡大しながら自動化・省力化を図る当社食品工場の集大成といえた。 販売面ではユキワ食品株式会社(1954年1月)とマルイチ食品株式会社(同年5月)に続き、大阪でニチレイ食品販売株式会社(1958年11月)を設立した。 当社は、1950年代後半から60年代はじめにかけて缶詰、魚肉ハム・ソーセージ、冷凍食品などを柱とする事業基盤を築き、製氷・冷凍会社から食品会社へと事業の幅を広げた。これは売上高にも表れ、商事部門(冷凍部門以外)の扱い高は1955年度の94億600万円から1961年度は214億9,300万円と約2.3倍に急増。冷凍部門の伸び(約1.7倍)を大きく上回り、売上構成比でも74.5%から79.4%に上昇した※17。けっさつ40※16 1960年、中央冷凍食品工業(のちの中冷)などにも投資した。※17 商事部門は売り上げと会社規模を拡大させたが、製氷・冷凍事業が利益を支※18 正式には「北西太平洋の公海における漁業に関する日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の条約」。200カイリ問題でソ連は同条約を破棄し、代わって200カイリ水域内については日ソ漁業暫定協定を結んだ。6.水産加工事業と缶詰・練製品■鮮魚から凍魚・水産加工品へ 北洋鮭鱒漁業の開始後、1956(昭和31)年の日ソ国交正常化と同時に、日ソ漁業条約※18が発効した。日本海・オホーツク海を含む北西太平洋のサケ・マス・ニシン・カニなどについて、水産資源保護と漁獲継続を両立する協同規制措置がとられた。 消費の高度化で加工食品の需要が高まる中、魚の利用形態は「鮮魚から凍魚へ、凍魚から加工凍魚・水産加工品へ」と変化し、水揚高の約75%が加工用原料として使用されるようになった。同じ水産加工品でも嗜好の変化を反映して明暗が分かれ、停滞・減退気味の煮干品、節類、塩蔵品に対し、練製品、加工凍魚、水産缶詰は著しい伸びを示した。 缶詰事業を再開した当社は水産加工事業にも注力し、沿岸の冷凍工場で漁獲物の軽加工を行い、加工凍魚や水産加工品として出荷した。1955年頃に500t前後だった当社の水産加工品の生産は、1961年に706t、1962年に1,808tと急拡大した。

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