ニチレイ75年史
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■当社の総合食品化施策 1950年代半ば以降、日本経済はおよそ20年にわたって高い伸び率で上昇を続けた。高度経済成長である。これに伴って所得水準も向上し、人々の生活も変わり始めた。余暇を楽しむ“レジャー”という言葉が一般化し、テレビ(白黒)、洗濯機、冷蔵庫の“三種の神器”といわれた電化製品が家庭に急速に広まるなどの消費ブームが起こった。 特に世帯普及率が1959(昭和34)年の23.6%から1965年に90.0%※15と急伸したテレビによる宣伝効果は大きかった。生活水準のバロメーターといえるエンゲル係数が1959年に40%の大台を割り、肉・卵・乳製品が急速に比重を高める中、電波に乗ったインスタント食品や冷凍食品などの加工食品が食卓を賑わすようになる。 こうした状況にあって、漁業の国際規制などで資源の将来に不安を抱いていた水産各社も、漁労、加工、販売の一投資以外は極力抑える。②消費水準の向上や食生活の変化に伴って冷凍品の需要増大が見込まれるため、大消費地と主要漁港などに超低温大型冷蔵倉庫を重点的に建設する。③冷蔵能力3万tの拡充を目標とし、その資金確保を最優先する。 計画に従い、初年度は清水工場(3,300t)と此花工場(3,886t)、翌1959年度は白鳥工場(4,550t)と仙台工場(2,340t)、1960年度には勝鬨橋工場(6,800t)、博多工場(3,000t)、広島工場(1,850t)と計7工場を新増設。1960年度末の全社冷蔵能力は1957年度末から約4万5,000t増えて11万9,000tに達した。アイスクリームや乳製品・冷凍魚などの比較的高額な商品を最良の品質や鮮度で保管できる超低温冷蔵(SA級※13)能力が、1956年度の6,600tから1960年度の4万3,000tに増えたのも大きな成果だった。 冷凍業3カ年計画は事業の構成を大きく変えた。凍氷売上高は1955年度の25億6,400万円から1960年度に27億800万円と微増だったが、冷蔵収入は1955年度の6億3,100万円から1960年度は16億8,000万円と急伸した。そして1962年度に冷蔵収入が凍氷売上高を上回った。1963年の勝鬨橋工場39項目製氷冷蔵凍結製氷冷蔵凍結全国日冷年1955195624,426 580,010 7,591 5,210 59,753 473 25,860 657,043 8,496 5,314 67,910 488 1957195826,862 726,048 9,468 5,466 73,699 512 27,593 805,502 9,750 5,539 92,130 548 1960196129,114 990,666 11,325 5,205 119,226 569 29,889 1,118,904 12,751 5,329 142,075 690 (単位:t)冷凍設備能力の推移※13 -20℃以下の冷蔵室のこと。※14 半月を1期とし、期間中に保管実績がある場合は、日数によらずに保管料が決まるやり方。※15 内閣府経済社会総合研究所「消費動向調査」より。白黒テレビの全世帯の普及率は1964年が87.8%で、1965年に90.0%となる。なお、1964年における普及率は、電気冷蔵庫が38.2%(1971年に91.2%と9割超え)、電気洗濯機が61.4%(1970年に91.4%と9割超え)となっている。第2章 戦後日本の復興に製氷・冷凍事業と水産・食品事業で貢献195928,357 882,154 10,341 5,453 101,356 544 5.消費ブームの中で総合食品化を目指すcolumn収入トン方式の導入 冷蔵倉庫の管理には保管延べトンと利用率の2つの尺度が使われてきた。前者は在庫貨物の一定期間の累計、後者は保管延べトンを同期間の延べ能力で除したもので、ともに数量本位だった。しかし原価管理、投資の効果測定などが数値化できず、経営管理面から改善要望が強かった。 そこで1958年、保管料が期建て※14 (1カ月は1~15日と16日~月末の2期)であることに着目し、これに見合う保管貨物は前月末と15日の繰越在庫トン数と当月に発生した入庫トン数の累計とを加算したものとして、これを「収入トン」と概念づけた。これはその後の冷蔵営業の基本となり、設備トン当たり収入などの概念へとつながった。

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