ニチレイ75年史
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■再び、海外視察へ 木村社長は1958年6月、再び米国と中南米に向かった。前年に始めたボストンでのマグロ加工事業とブラジルで展開中の冷蔵・加工事業、日程の都合で前回は見送った中南米の現地事情を視察した。 当社は1957年1月、ブラジル北東部のレシフェ市※10 にインブラッペ(ブラジル冷蔵株式会社)を全額出資で設立。日本の中小漁業者を誘致し、水産資源を開発、加工凍結してブラジル市場への販売を始め、日本の水産食品企業による海外進出のテストケースとして注目されていた。木村は帰国後、同社の順調な進展を報告し、海外事業は10年、20年先を考えて取り組むべきことを強調した。■欧米視察とその成果 当社が海外情勢を調査する中、冷凍事業や食品加工事業の将来性を自らの目で確かめるため、1956(昭和31)年10月、木村鑛二郎社長は欧米視察に出た。 木村は、まず米国で主要十数都市の製氷・冷蔵・缶詰・冷凍食品工場などを視察。魚市場やスーパーマーケットにも赴き、生鮮食品の流通や大量販売の実情を調査した。欧州では冷蔵倉庫、魚市場、畜産加工施設、流通状況を視察した※8 。 木村は2カ月に及ぶ視察を終えて帰国し、次のように報告した。第2部ドン、パリ、ハンブルク、チューリヒなどを訪れた。トウキビ栽培で栄えた。に農畜産品を加えて食品加工事業を伸ばすべき。① 製氷設備は既に飽和状態で、漁船の装備の近代化や電気冷蔵庫の普及で氷需要の減少が必至なため、合理化かちどき38※8 米国ではニューヨークやシカゴ、サンフランシスコなどを歴訪。欧州ではロン※9 農・水・畜産物などを原料に加工食品を生産する食品工業。※10 南米大陸東端の貿易港で同国屈指の大都市。ペルナンブコ州の州都としてサさんまトマト漬け缶詰の生産① 米国の製氷事業は斜陽化が激しいが、夏季の暑さと湿度から日本の氷需要は当分続くと考えられ、販売の工夫と設備合理化によるコストダウンに傾注すべき。② 冷蔵事業(冷蔵庫)には今後も注力すべきだが、米国を真似て設備を一挙に大型化するのは問題があるだろう。③ インフラが未整備な現在の日本では冷凍食品の急成長は期待できない。まずは優れた商品開発に努め、徐々に普及させるべき。④ 海外事業は伸ばさなければならない。国内のマグロ漁業者と連携して基地づくりを進め、海外の魚肉需要に応えることが、日本の中小漁業者の発展のためにも有意義な事業となる。⑤ 欧米のフードインダストリー※9 は堅調で、当社も水産品※11 一般に豊漁・不漁とともに価格は騰落するが、原料が安いときに生産して冷凍保管し、供給が少ない時期に市場に出せば、供給量や価格を安定させる効果が期待できる。※12 1945年6月、日本製氷から賃借して使用開始(1950年に買取り)。今はニチレイ東銀座ビルがある。3. 海外視察 4. 冷凍業3カ年計画の推進■製氷から冷凍への転換 1950年代に北洋漁業や母船式マグロ事業の本格化、装備の近代化が進み、漁獲物の多くは船内凍結され、凍魚や加工凍魚の形で陸揚げされるようになった。 一方、食生活の西洋化で魚肉、畜肉、乳製品の消費が著しく増え、冷凍保管の需要増に拍車がかかっていた。冷凍による価格安定作用や流通上の重要性※11 もあり、設備の拡充、近代化が急務であった。 冷凍時代の到来を見据え、当社は1953(昭和28)年に東京工場(2,800t)を稼働させ、1957年には神田工場(3,136鬨橋工場※12 (3,846t)の新増設に踏み切った。いずt)と勝れもアイスクリームの需要増を見込んだ超低温冷蔵倉庫(当時)で、ともに予想を上回る業績を上げた。 当社は製氷から冷凍への転換と近代化工場の建設を強力に進めることとし、1958年度に始まる冷凍業3カ年計画を立案した。骨子は次のとおりである。

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