ニチレイ75年史
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■事業体制の確立 缶詰事業の再開は、1949年の千賀浦工場の整備に始まった。1950年にはカツオ・マグロ缶詰の生産を開始、翌年8月には「後藤物産缶詰株式会社」(現 はごろもフーズ)からの申し入れにより焼津缶詰工場(1953年買収)を、また「山形県合同食品株式会社」より同社の缶詰工場を賃借して、水産缶詰および一部果物缶詰の生産体制を整えた。続く1952年には佐世保缶詰工場の賃借設置(1954年廃止)、「北海道農村工業組合」との販売提携、さらにカニ・マス・サケ缶詰工場との委託販売契約の締結と急ピッチで事業化が進み、1953年には業界大手の一角を占めるまでに成長した。 この間、販売面では各地の有力問屋との提携を広げる一方、全国の営業網を活用して市場開拓に努めた。また、東京では直販会社である「藤屋※7 」を設立し、百貨店や団体などの顧客獲得に力を注いだ。 1953年頃から1955年にかけては、日本水産や大洋漁業・日魯漁業などの大資本漁業各社や宝幸水産、北洋水産、大洋冷凍母船などと投融資、漁獲物・製品の販売で密接な関係を保ち、サケやカニなど重要商材を潤沢に調達できたことが缶詰事業の大きな支えとなった。この頃になると提携を含む各工場の生産も軌道に乗り、特にサバ缶詰は優れた品質で銘柄品として定着した。その結果、取り扱い規模は着実に増え、1951年度の6万3,000函から1955年度には54万6,000函と急増した。89(同157)と低かった。しかし運営効率では業界水準を上回った。これは施設、管理、運営を合理化し、効率経営と体質改善を推進したためだった。 合理化を進める一方で、1952年6月の後楽園アイスプラント※5 設立以降、各地のアイススケート場に冷力を供給する事業※6 を推進した。いずれも冷凍工場の余剰機械力を活用したもので、冷力の新たな販売先として注目された。 当社は1953年までに被災した製氷設備の再建をほぼ終了し、以降は冷凍施設の新設に注力した。1953年4月、当時としては画期的な東京工場を新設した。同工場は、冷蔵2,800t、製氷53t、凍結7tの能力を持つ総合工場で、冷蔵倉庫は1,500tが限界とされた既成概念を打破し、3,000t近い規模に拡大した。さらに-20℃の超低温に性能を高めて超低温大型冷蔵倉庫の建設を進める転機となった。央に集約して、事業化の態勢を整えた。 その食品加工事業の第一弾が缶詰事業だったのは、輸出用や高級食品として重用される缶詰の事業化によって、広く社名の浸透を図るためだった。37※5 1936年創立の後楽園スタヂアムが1951年に開設したスケート場「アイスパレ※6 京都スケートへの資本参加、神奈川アイスプラント設立(1953年)、中日アイスス」に冷力を供給した。興業への冷力供給(1954年)など。※7 前 日冷商事、1954年1月に「ユキワ食品」を設立して事業を譲渡。第2章 戦後日本の復興に製氷・冷凍事業と水産・食品事業で貢献1955年の缶詰工場2. 缶詰事業の再開 ■事業再開の経緯 水産物の統制撤廃や漁業政策の転換によって、日本の漁獲高は1950年代に著しく増加し、これに伴って水産加工業の生産も急増した。その代表例が缶詰事業だった。原料・資材などの入手が容易となったことで、水産缶詰の生産量は急激な伸びを示した。1948(昭和23)年に42万函だったが、朝鮮戦争が起こった1950年には対米輸出の好調も手伝って、一気に353万函と8.4倍に増加した。さらに漁場の拡大や消費性向の高度化、海外需要の活況などを背景に、1954年に798万函と戦前最高(1937年の774万函)を超え、翌55年には991万函に急成長した。 当社の缶詰事業については、発足の際、日本水産から陸上の加工施設と販売網を従業員とともに引き継いでおり、食品の貯蔵技術や缶詰処理の経験と技術者を有していた。そのため、原料や諸資材も乏しかった戦後まもなく、冷菓事業やちくわ・揚げかまぼこなどの水産加工品事業を再開していた。 食品加工事業が一つの独立した事業として体系化されたのは、企業整備を終えた1950年からだった。この年、組織や人事を一新するとともに、分散していた研究機関も中

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