ニチレイ75年史
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第2部う減船の動きもあり、以西底引網漁業などは影響を受けた。けいそん鱒漁業の再開(1952年5月)、鰹かつおまぐろ60億円に上る国家融資を基に重要漁業生産地と消費都市に生鮮食料品の流通に欠かせない冷凍施設※3 を拡充することで、魚価と漁業経営の安定化を目指していた。しかし、農林漁業資金融資法および同特別会計法によって多額の財政資金が投入されると、漁業協同組合系工場の増設ラッシュが起きた。加えて、一般企業による新増設も相次ぎ、1953年頃から全国の冷凍設備は飽和状態となり、特に水産基地では深刻な過当競争に陥った。1950年代半ばの設備能力は、戦前(1940年)に対して製氷1.5倍、冷蔵2倍、凍結3倍と高い水準に達した。 こうした業界内の拡大機運に対し、当社は復興を急ぐよりも、冷凍業の長期的展望を見定め、競争力を高める視点が重要として、設備の合理化・近代化、規模の拡充を図ることとした。殊に製氷事業は過当競争で倒産・合併を繰り返した歴史があり、また家庭用電気冷蔵庫の普及も予測されたことから、これらが陸氷に及ぼす影響や事業の将来性を十分に見極める必要があった。 当社は1950年10月、草野副社長と武谷冷凍部次長を実情調査のため米国に派遣した。電気冷蔵庫が普及し始めた米国では、氷需要の先行きを悲観する見方が圧倒的に多かった。また視察により得たアイスクリームや食品加工事業、冷凍技術などの情報は事業施策に生かし、その後も技官を派遣するなどして世界情勢の把握に努めた。 製氷事業の斜陽化は必至とみた当社は、既存設備の合理化によって競争力を高めることに重点を置き、建設の際は消費地の需給予測を立てた上で行うこととした。一方、冷凍事業ではアイスクリーム、北洋のサケ・マス、南方のマグロなどの需要増を見込み、大消費地に大型超低温※4 冷蔵倉庫を新設する方策を採った。当社の設備能力の伸びを業界全体と比較すると、1950年を100とした場合、1955年に製氷は127(業界全体146)、冷蔵は138(同153)、凍結は・鮪36※1 漁場を制限するために設定されたマッカーサー・ラインが、サンフランシスコ講和条約により撤廃され、北洋などに漁場が拡大。沿岸・沖合漁業から遠洋漁業へと日本の漁業は発展した。※2 漁場拡大の一方で、1950年の水産資源枯渇防止法、翌年の水産資源保護法に伴※3 計画では、設備は漁業生産者や漁業協同組合、生産加工業協同組合が直接経営すべきとされていた。※4 今日でいう-40℃以下ではなく、当時は-18~-25℃を超低温といった。1. 冷凍設備の拡充と事業の復興 ■水産事業の復活 当社は再建整備を完了した後、日本経済と歩を合わせるように事業を復興していった。 戦後は魚価の高騰から水産物が再統制されていたが、1950年4月に統制が撤廃された。さらにマッカーサー・ラインの撤廃※1 による北洋鮭漁業特例法の施行(1953年7月)など漁業政策が転換※2 。漁獲装備の近代化、漁船の大型化にも支えられて水産物の取扱高は著しく増大し、漁業会社などへの投融資が活発化した。これに伴い、水産原料を使った缶詰事業も軌道に乗っていった。■将来への布石 製氷・冷凍事業の復興はめざましく、1949年末当時で、業界全体の規模は既に戦前を上回っていた。これに拍車をかけたのが、政府が漁業の急拡大に呼応して1951年度に開始した「冷凍施設整備5カ年計画」だった。同計画は、第2章 1951(昭和26)年~1960(昭和35)年戦後日本の復興に製氷・冷凍事業と水産・食品事業で貢献column韓国向け軍需用氷の供給 1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、軍需品の生産や輸送の注文が日本に殺到し、特需景気(1950~1954年)が生まれた。 1951年夏、当社は在日米軍調達部から、韓国向け軍需用氷の供給に関して全面協力を求められた。国連軍は盛夏を中心に大量の氷を必要としたが、現地の供給力が乏しく、衛生面からも日本での調達が望ましいことから、一般入札ではなく大型冷凍運搬船を持つ最大手の当社が指名され、年間包括契約が結ばれた。 凍氷積み出しは同年8月の「阿蘇丸」を第一陣に、「相模丸」「筑前丸」「赤城丸」など冷凍運搬船延べ20隻を動員、初年度は1万tを納入した。1952年度はチャーター船3隻を加えて2万1,000t、1953年度は2万3,000t、最終の1954年度は3万6,000tと4年間で計9万t余の凍氷を供給し、売上高は6億8,000万円余に上った。

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