ニチレイ75年史
60/320

■本社と地方の機構改革 集排法の指定が解除され、人員整理が一段落した当社は、1949年11月、企業整備計画に従って本社の機構改革を実施した。目的は、経営組織の合理化と管理費の圧縮を図ることだった。 さらに、来るべき自由貿易あるいは国際経済時代に備えて本社の管理統制機能を強化し、近代的な企業としての体制を整える意図もあった。 機構改革の柱となったのは、①管理部門の強化、②冷凍部と営業部を合わせた冷販一致体制、③国際化に備え貿易課を貿易部として独立させる、などで、人事も大幅に刷新した。また12月には支社管轄だった出張所を独立させ、翌年11月に出張所(秋田は廃止)を支社に格上げした。 取締役会発足に先立つ1951年4月には、本社機構を改正して経営の合理化と事業の強化を図った。各部に分散していたスタッフ機能(企画・管理・監査)を新設の調査部(のちの管理部)に統合強化するとともに、事業活動強化のたる中、組合の権利に加えて、会社の経営権確立も盛り込まれた。 賃金体系についても刷新された。生活手当や家族手当などの生活保障的賃金となっていたものを、賃金は人の能力と職務によって支払われるべきものとの原則に沿う体系に変更した。査定によって決定する基本給を新設し、生活手当や家族手当の比重を減らす内容で、戦後の混乱で会社の負担能力を超えて高率となっていた退職金規程についても改定がなされた。1951年11月10日、組合と調印した新賃金体系は、当時、生活保障的性格が根強く残っていた日本企業の中で、画期的といわれた。第2部かんようて、有望な事業に順次着手していきたい。すなわち、漁業、食品加工・缶詰・冷凍食品の生産などはこれを拡張発展させ、家庭用冷蔵庫の製作にまで及ぶべきであると考えている……」と将来の展望を述べ、協力を訴えた。 当時、「株式会社編」を中心に商法が全面的に改正(1951年7月施行)され、また企業経営上の経験や知識を体系的に整備した米国の経営管理技術※20 が日本でも導入され始めていた。当社はこのような時代の流れに即して、1951年7月、取締役会規程を新たに制定し、同時に改正商法に基づく取締役会を正式に発足させ、トップマネジメント体制の確立を目指したのである。34※18 水産庁長官への転出により退任。※19 集排法問題で持株を手放した関西製氷の代表取締役社長就任に伴い退任。※20 税制や会計制度、労務管理などの諸問題に対応するため、所有と経営を分離し、経営意思を決定し推進するマネジメント体制の確立が急務とされ、支える管理スタッフの育成も必須だった。二代目社長 木村鑛二郎■経営陣の強化~木村鑛二郎の社長就任 日本冷蔵の発足当初、役員は林社長以下5人(ほかに監査役2人)だったが、内外に山積する課題に対処するため、1946年12月、新たに5人の取締役(富田延之助、佐藤正夫、中谷由路、三好博明、三宅二一郎)を選任した。なお、被災工場の復旧や各種統制業務は地方に分権化されていたため、佐藤、中谷、三宅の3人は取締役支社長として現場にとどまった。翌47年1月には木村・草野の両取締役が常務取締役に昇格し、企業整備などに取り組む態勢が整えられた。しかし、同年11月、当社入社前に林兼商店の常務取締役だった宮田専務が公職追放該当者に指定され退任したため、家坂常務が専務取締役に就いた。 さらに再建を着実に前進させるべく複数副社長制を敷き、併せて常務陣も強化することとし、1950年1月、林社長のもと、3副社長(木村、家坂、草野)・3常務(中谷、富田、三好)の執行体制を整え、取締役も新たにひとり(松崎進)を選任した。 同年5月、家坂副社長※18 と同年6月、佐藤取締役※19 が退任したのに続いて、翌年1月、健康上の理由から林社長が退任。木村副社長が第2代社長に就任することになった。 木村は社長就任に当たり、全国支社長会議を招集。企業発展への新たな決意を表明するとともに、好転の兆しが見えてきた業績を一段と押し上げるためにも、①経費節約の徹底、②施設の合理化によるコスト引き下げ、③販売力の強化、④社風の涵養と社員の育成、この4つを要請した。また、全社に対し、「冷力利用による食品事業の確立を目指し

元のページ  ../index.html#60

このブックを見る