ニチレイ75年史
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■人員整理と定期採用 当社は1945(昭和20)年12月に1,460人にも及ぶ人員整理を行ったが、その後の復員や外地勤務引揚者などで従業員が大きく増える一方で工場復旧が追いつかず、引き続き、人員過剰が課題となっていた。 冷凍事業で見ると、人件費の高騰が原価構成を悪化させ、直接生産コストに占める人件費は1940~1943年平均の40%から、1946~1948年平均では52%に上昇していた。これは即、生産性に反映し、工場従業員ひとり当たり1日の凍氷生産量は1940年の544㎏に対し、1948年は283㎏と半減した。 企業再建のためには人員整理は避けられず、1949年5月、当社は日本冷蔵従業員組合※17 に対して労働協約の失効を申し入れ、6月に新労働協約案を提示した。続いて9月、■新労働協約の締結と賃金体系の刷新 1949年12月に会社と組合が和解すると、失効した労働協約について、新協約の締結交渉が始まった。新労働協約は、会社と組合が互いに基本的権利を尊重し、協力して社業の発展と組合員の社会的・経済的地位の向上を図るという根本理念の上に立っていた。経済情勢が激変す計年「レイカ」の名称で販売して人気を呼んだが、当社内では食品事業の位置づけではなく、製氷事業の一環だった。サイドビジネスではあったが、1946年度の売上高は1,600万円と製氷事業の約2割に相当し、1948年度には6,800万円に達するなど、新円経済下の苦しい資金繰り緩和に貢献した。しかし、激しいインフレや原材料の調達難に加え、氷の供給不足からレイカの製造より製氷を優先させなければならない事情もあって、冷菓事業は1949年に中止した。従業員5,174人のうち1,077人の人員整理、管理部署削減などの機構改革、給与体系の刷新(能率給中心に改定、水準の引き上げ)などを内容とした企業整備計画を組合に提示した。 当時、先鋭化していた組合は反発し、組合独自の再建案を出す一方、解雇と退職給与に対して労働委員会へ提訴するなど緊迫した状態が続いた。しかし、これら一連の会社提案がぎりぎりの選択だった当社は、団体交渉を打ち切り、「会社の責任を以て所信を断行する」と宣言。9月27日、解雇通告が始まった。組合側は「組合の承認を得ずして従業員を解雇してはならない」などと東京地裁に仮処分を申し立てたが、概ね会社側の主張が認められ、この結果、従業員数は4,008人となった(ほかに海上従業員222人)。なお、執行部が交代した組合は紛争状態の解決を望み、12月15日には会社側と和解した。 一方で、当社は1949年に定期採用に踏み切っている。苦しい環境下で中途採用から定期採用へと転換したのは、再建への展望をより確かなものとするためだった。33品種鮮魚凍魚水産加工品凍菜類農畜産品特殊加工品その他1946(1946.3〜1947.2)(1947.3〜1948.2)(1948.3〜1949.2)(1949.3〜1950.2)12,371 436,888 18,000 719,336 10,335 1,087,321 ――304 55,002 ――345 39,779 2,338,326 数量金額数量金額数量金額数量金額数量金額数量金額数量金額金額19472,258 16,697 6,124 56,269 1,196 17,423 634 3,553 225 1,164 ―11,803 ―1,319 108,228 6,154 48,741 17,040 253,279 6,720 162,771 2,756 31,192 1,279 27,556 ―63,953 ―21,839 609,331 19488,423 193,013 16,500 539,026 7,148 604,158 1,013 23,077 319 37,314 630 67,511 68 15,041 1,479,140 (単位:数量t、金額千円)水産品販売実績※17 当社の組合発足は1946年5月と早く、会社は組合の健全な発展を期待して支援した。しかし組合は次第に政治色を強めた。第1章 「日本冷蔵」としての再起19495. 経営管理の合理化

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