ニチレイ75年史
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■社名変更の経緯 社名が「日本冷蔵」に決まるまでにはさまざまな経緯、葛藤があった。帝国水産統制(株)という社名は水産統制令第2条で決められた公の呼称であり、名付け親は国家だった。従って、当社が一民間企業に生まれ変わるに当たり、社名変更には2つの意味があった。「日本冷蔵株式会社ハ12月1日ヨリ業界注視ノ中ニ発足スルコトトナリマシタ。思イマスニ新会社ハ現在ノ国内情勢カラ見テ其ノ事業ガ極メテ重大ナル意義ヲ有シアルニモ不拘、只今ノ経済事情及社内ノ現況ハ甚シク不利デアリマシテ、之ガ経営ノ困難デアリマスコトハ万人ノ認ムルトコロデアリマス。例ヘバ 1. 戦災ニヨリ90有余ノ工場ト多量ノ商品及資材ヲ焼失シ 2. 外地資産ハ全面的ニ凍結シ喪失ノ運命ニアル一方 3. 国内ノ各事業ハ戦時中全ク採算ヲ無視シテ経営セザルヲ得ナカッタ為ニ其ノ業績ハ極メテ不良デアッテ更ニので、社員996人(35%)、工員464人(20%)の計1,460人に及んだ。 当時の厳しい内情や、急迫した状況下での再出発にかける決意は、木村取締役(業務部長、のちに社長)が発した書簡に見て取れる。 4. 復員社員ハ急激ニ復帰シ、必要人員ノ倍以上ノ過剰人員ヲ擁スルニ至ッテ居リ 5. 事業ノ飛躍ニハ前途ニ必然的金融ノ逼迫ヲ招キマシテ実ニ容易ナラザル状態ニ在ルノデアリマス 乍然吾々ハ当社ノ事業ガ国民生活ニ欠クベカラザル重要性ヲ持ッテヰルノニ鑑ミ凡ユル悪条件ニモ不拘事業ト共ニ興亡スルノ決意ヲ有シ、全社内一致協力シテ新会社ヲ進発セシメヨウトスル次第デアリマス。 従ッテ当社ノ事業方針ハ内ニ各位ノ燃ユルガ如キ勇猛心ヲ内蔵シツツモ、前述ノ難点ヲ逐次解決シツツ、進ムガ為ニハ勢ヒ漸進的ナルハ免カレマセンガ各位ニ於カレテハ良ク此ノ間ノ事情ヲ理解シ従来ノ沈滞セル気分ヲ全ク払拭シ吾々ノ大切ナル職場ヲ死守シテ此ノ難局ヲ打開シ国民生活ノ安定ニ資セラルルト共ニ社運ノ挽回ニ努力セラレン事ヲ切望スル次第デアリマス」第2部業は認められなかった。 一つは社内外に対して企業の存続と再出発を表明することだった。国家総動員法に基づく特別法で設立された当社の去就は、当時、内外から強い関心が持たれていたためである。 そしてもう一つは、定款の事業目的とも関わるが、再出発の理想をどのように社名に盛り込むかということだった。歴史的に製氷・冷凍工場の多くは水産業の付属施設として経営され、全国に分散して零細企業も多く、天候や漁況に左右されて経営は不安定だった。これに対して、経営不振の打開を図り、全国規模で再編した上で、製氷だけではなく水産物を中心に冷蔵保管から加工・販売に至る流通過程を総合的・多角的に運営しようとしたのが、当社の前身である日本食料工業株式会社だった。ただ同社も、冷凍事業は採算維持が精一杯の状況だった。こうした冷凍事業の歴史と漁業資本との関わりは、冷凍事業の独立と安定経営がいかに困難であるかを示していた。そこで、新会社は冷凍事業を中核としながらも、水産、食品、農畜産などの分野に幅広く事業基盤を持つことで、経営の多角化・安定化を図ろうとしたのである。 社内では、このような歴史的な事情を鑑みて原点に立ち戻り、「日本食料工業」を望む声が多かった。しかし、大株主であった日本水産、日魯漁業、大洋漁業、極洋捕鯨などは、新会社は陸上の冷蔵・冷凍施設主体に運営されるべき※11 として、事業内容をストレートに示す「日本冷蔵」の社名を推した。最終的に、大株主の意見が通り、1945年11月24日の臨時株主総会で「日本冷蔵」に決定した。30※11 当社は漁労に進出しないというのが株主たる水産各社の意向で、定款上も漁■困難を乗り越え再建へ 朝鮮半島や中国に在外資産を持っていた当社は、1946年8月、「会社経理応急措置法」に基づく特別経理会社の指定を受け、1947年5月に再建整備審議委員会を設けて処理を進めた。同年12月には「過度経済力集中排除法」(以下、集排法)が施行され、1948年2月、第1次該当企業257社のうちの1社に当社が指定された。最大の製氷・冷蔵・冷凍企業であり、30を超す従属会社を擁して支配力を持つというのがその理由だった。 しかし、米ソ冷戦が次第に先鋭化する中で、GHQの対日占領政策も非軍事化から経済自立化へと変化し始め、1948年5月以降、順次、指定が解除された。当社が指定を解

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