ニチレイ75年史
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■戦後の食料難に直面して 「水産統制令」が廃止された1945(昭和20)年11月30日、帝国水産統制(株)は設立根拠を失い、会社を解散するか、事業目的を変更して再生を図るか岐路に立った。 当時、帝国水産統制は戦災によって冷凍工場の設備能力の42%を失い、海外の事業場はすべて接収されていた。加えて、800人を超える復員者や外地社員の引き揚げもあって、人員規模は事業規模を上回っていた。業務の停滞、生産力の激減、人件費の高騰などから、経営は危機に直面していた。また、戦時統制機関・団体などに対するGHQの閉鎖指令は、社内の不安を大きいものとした。 一方で、160余の冷凍工場と加工施設が戦禍を免れており、これらは食料の貯蔵・流通や加工に欠かせないものだった。窮迫した食料問題に応えることが、会社にとって新たな責務となっていた。 農林省も、帝国水産統制(株)の冷凍施設は日本の水産業復興と食料行政に重要だとし、企業としての存続を求めた。鍵を握ったのは、冷凍工場をはじめ陸上施設の多くを一括譲渡した日本水産株式会社の動向だった。しかし冷凍工場の大部分が時代遅れになり、収益力が極めて低い上、過剰人員を抱えていたことから、同社が再び吸収することはなかった※7 。  こうした事情を背景に、帝国水産統制は冷凍事業を中心とした食品事業の多角的経営※8 によって再生を図ることとした。国策会社から民間会社に転換するに当たって、水産統制令が失効した時点で定款を変更し、商法上の会社に改組する方法が採られた。 なお、GHQによる「統制会の解散並びに特定産業内における政府割当機関及び所要統制機関の設置認可に関する覚書」(1946年8月)に基づき、1947年3月に「閉鎖機関令」が公布され、あらゆる統制会社の解散が進められた。だが当社は既に純民間企業であること、企業の公益性、食料供給の重要性などにより、閉鎖機関に指定されることはなかった。この戦後の素早い決断が、今日のニチレイへとつながる。木村鑛二郎草野常徳藤岡宇志治近江政太郎29※7 日本冷蔵株式会社二十五年の歩み 25~26ページ記載の木村鑛二郎(元日本冷蔵社長)が植木憲吉(元日本水産社長)と話し合った回想による。※8 製氷・冷蔵・凍結・漁業・加工の5部門を多角的に運営するという方針の下、冷凍事業だけでは会社の発展は困難で、漁業や農場・牧場の経営や加工事業への進出が必要との認識だった。 空襲で一面焼け野原となった東京の下町 ©️kyodonews/amanaimagesGHQが財閥解体 ©️kyodonews/amanaimages※9 この12月1日を根拠に、1946年11月16日、当社の創立(改組再発足)記念日が定められた。※10 共同漁業(株)・日本水産(株)の取締役を経て、帝国水産統制(株)の理事を務めた、生粋の水産人。第1章 「日本冷蔵」としての再起2. 国策会社から民間会社への転換■日本冷蔵の設立 1945年11月24日、帝国水産統制(株)は臨時株主総会に役員改正議案と定款改正議案を上程し、12月1日※9 、日本冷蔵株式会社として再出発した。 帝国水産統制の理事および監事16名全員は使命終了とともに辞任を申し合わせ、臨時株主総会で退任が決まった。新たに役員が選任され、林準二※10 が社長に就任した。再建を担う新役員は次の通りである。  取締役社長 林 準二  専務取締役 宮田彌治郎  常務取締役 家坂孝平  取締役   取締役   監査役   監査役  林社長は就任早々に会社再建方策について新役員と協議し、事業規模の縮小に対処して本社機構を簡素化すると同時に、過剰人員の整理を急いだ。人員整理は大幅なも

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