ニチレイ75年史
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■過度経済力集中排除法 1945年11月、GHQは持株会社の解散を発令し、4大財閥(三井、三菱、住友、安田)の本社解体、持株会社整理委員会の設立、本社・同族の財産処分禁止を決定した。解体の対象は拡大され、翌1946年8月以降、1947年9月まで5次にわたって、4大財閥本社以外の中小財閥※5 本社など83社が指定され、解体もしくは持株処分の措置が行われた。 こうした財閥解体や企業再建整備法の措置後になお残る、巨大企業が持つ独占的な経済力の集中を除去する目的で1947年12月に制定されたのが「過度経済力集中排除法※6 」だった。その実施担当機関は持株会社整理委員会で、翌年2月には鉱工業部門257社、サービス業部門68社の計325社に経済力が過度に集中しているとして指定された。日本冷蔵は、鉱工業部門のうち、機構上の再編成を要する企業(100社)に含まれていた。■会社経理応急措置法 1946年10月、実質的に戦時補償債務の切り捨てを意味する「戦時補償特別措置法」が公布され、これに先行して 1945(昭和20)年8月15日、戦争は終わった。 敗戦国となった日本は、米国を中心とする連合国軍(進駐軍)の占領下に置かれた。帝国陸海軍の解体と軍需工場閉鎖などの指令第1号が発せられ、以後、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から日本政府への指令により、非軍事化・民主化の方針に基づく諸改革が実施されていった。 戦後、まず国民を襲ったのは食料の絶対的な不足とインフレーション※1 だった。経済的混乱への対応として、1946年の金融緊急措置※2 、1949年以降のドッジ・ラインに基づく超均衡予算の策定など需要面からのインフレ対策と、傾斜生産方式※3 に代表される基礎的生産能力の増強策が講じられた。 また、戦前経済からの脱却を図るための構造改革が、矢継ぎ早に実行に移された。 第一は財閥解体である。1947年以降、83社に上る財閥が解体され、同年、「独占禁止法」と「過度経済力集中排除法」が制定された。これにより、経済成長の基盤となる競争的環境が整うことになる。第二が農地改革※4 であり、第三は労働改革であった。労働者の地位向上を図るため、「労働組合法(1945.12)」、「労働関係調整法(1946.9)」、「労働基準法(1947.4)」の労働3法が制定された。 こうした産業政策、構造改革の中で、戦後の数年間に当社再建に大きな影響を与えたのが「会社経理応急措置法」と「過度経済力集中排除法」だった。その概要は次のとおりである。第2部140倍に高騰した。削減を図った措置。8月に「会社経理応急措置法」など、10月に「企業再建整備法」ほかが施行された。「会社経理応急措置法」は戦時補償を受ける権利を持つ会社や在外資産をもつ会社などを特別経理会社として指定し、補償打ち切りによる経営破綻を免れるために必要に応じて債権、債務を棚上げできるようにしたもの。「企業再建整備法」は特別経理会社が戦時補償特別税を課せられたことなどによる損失を適正に評価し、企業の再建整備を促進する目的で施行された。 これらの法律によって資本金20万円以上の会社4,764社が特別経理会社に指定され、このうち資本金1,000万円以上の会社では205社が評価益で補填、172社が減資、151社が資本金の9割を打ち切った上、さらに債権切り捨てを行わざるを得ない状態だった。当社も会社経理応急措置法の定めるところに従って、1946年8月11日をもって新旧勘定を分離し、臨時決算を行った。28※1 1946年2月、東京卸売価格は戦前平均(1934~1936年)の8.6倍、小売の闇価格は※2 インフレ阻止のため、新円切替および一定額以上の預金封鎖によって、通貨量※3 経済復興のために石炭や鉄鋼に重点を置いた産業政策。※4 地主制解体と自作農創設のため、小作農解放、小作料の引き下げと金納化、不在地主一掃を行った。※5 大倉・浅野・古河・渋沢・野村などの各財閥のほか、日産コンツェルンの持株会社※6 1947年7月施行の独占禁止法と深く関わり、それを執行する上で必要な措置となども含まれた。して制定された。1. 戦後日本の構造改革第1章 1945(昭和20)年~1950(昭和25)年「日本冷蔵」としての再起

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