ニチレイ75年史
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解けを待って38度線を突破し、1946年4月と6月に博多に帰還した。華北・華中 華北地域では全社員が華北水産統制協会へ出向していたが、終戦時には動員などのため社員は63名と半減していた。1945年10月に国民政府側に事業を引き渡したが、本社から監査で滞在していた社員1名ほか3名が栄養失調で亡くなっている。天津地区には当初19名の社員が在籍していたが、現地応召の結果、終戦時には8名に減少。1946年6月までに全員が引き揚げた。奥地の済南は早めに事業場を閉鎖して9月初旬に市政庁に接収されたが、社員2名が工場技術要員として残留を要請され、しばらく工場運営にあたった。 華中を総括していた上海支社は10月に国民政府側に接収された。南京地区では、南京三沙河工場が国民政府軍によって封鎖・接収され、13名の社員は邦人収容所で過ごし、1946年4月に上海経由で引き揚げた。漢口や徐州も国民政府側に接収され、邦人収容所で過ごした後、南京や上海経由で引き揚げた。杭州地区では自営工場を9月に国民政府側に引き渡し、上海に退避したのち、1946年1月に引き揚げている。南方 昭南・マレー地域は、邦人収容所に収容されたのち12月までにはほとんど引き揚げを完了したが、スマトラ地域はインドネシア独立をめぐる不穏な情勢が続き、テルクベトウンでは社員が射殺される事件が起こった。また、メダン地区では暴徒に工場引き渡しを脅迫される一幕もあったが、1946年7月を最後に現地から引き揚げた。 ジャワ地域には30名の社員が在住していたが、ボゴール南方の奥地チブンゴールに退避したのち、1946年5月に全員の引き揚げが完了した。樺太 豊原支社はソ連軍に接収された。支社長ほか社員5名は民家に一時逃れるなどしたのち、1年8カ月の抑留生活を余儀なくされたが、1947年6月を最後に全員が引き揚げた。25第2章 帝国水産統制株式会社の成立

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