ニチレイ75年史
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■敗戦と外地事業の閉鎖、引き揚げ朝鮮 南朝鮮では当時130万人の一般邦人が暮らしていた。満州、北朝鮮からの避難者が加わって一時は大混乱に陥ったが、京城支社および釜山、麗水の事業場は残務を整理し、1946年3月までに全員が引き揚げを完了した。 しかし清津、元山地区では、ソ連軍が38度線を封鎖したため、清津出張所の社員10名とその家族、元山出張所の社員6名とその家族は抑留生活を余儀なくされ、栄養失調と発疹チフスで社員1名と家族3名を失っている。一同は雪南方事業 帝国水産統制(株)は南方(現 マレーシア、シンガポール、インドネシア)事業を新たに開拓した。当時の日本は石油、鉄、ゴムなどの資源獲得を目的に南方への進出を積極的に進めており、同地における食料の安定供給が重要な任務となったのである。 マレーやジャワ地域は有数の米作地帯として知られ、米の調達に困ることはなかった。しかし、動物性タンパク源である水産食料品や畜産加工品の安定供給を図る必要があり、また、各地に駐屯する兵員食料を貯蔵する施設も必要であった。軍部はこれらの役割を帝国水産統制(株)に求めた。南方には日本水産をはじめ進出した企業がなかったことから、帝国水産統制は急ぎ調査・準備を進め、1943年4月の開業時、マレー地域の昭南特別市(シンガポール)とジャワ地域のジャカルタに本社直轄の出張所※10 を設置した。 1943年11月に昭南出張所は支社に昇格、クアラルンプール、イポー、ペナン、アロー・スターおよびスマトラの各地に次々に出張所を開設する一方、9工場を稼働させた。1944年1月にはスマトラ地区のパダンに支所を開設してオランダ系接収冷凍工場の受任経営にあたったほか、小規模ながら軍需専用の製氷工場も建設した。 ジャワ地域では、1943年11月にジャカルタ出張所がジャワ支社に昇格し、ジャカルタ、バンドン、チレボン、スマランに出張所を、テガールに事務所を設けて、冷凍工場の経営をはじめ、漁業、養魚場、水産加工場、寒天工場などの運営にあたった。活対策が急務となった。このため、水産物や畜産物およびその冷凍加工の一元的な統制機関として華北水産統制協会(のちに株式会社に改組)が設立されることになり、北京支社は廃止された。北京支社管下の資産、事業のいっさいを同協会に現物出資(出資額1,238万円、出資率41.7%)するとともに、社員をそのまま出向させている。 華中地域は、上海支社のもとに南京、漢口に出張所を、杭州、徐州に事務所を設け、華中全域にわたる軍納事業と農畜水産物の売買を行った。冷凍施設は南京、漢口、徐州、杭州に自営工場を保有したほか、上海地区では軍管理のユニオン冷蔵、培林洋行の冷凍工場の運営も引き受けた。また、冷凍、青果、畜肉などの投資会社も数多く保有した。第1部昇格(日本冷蔵株式会社二十五年の歩み)樺太 1943年4月、大泊に事務所を開設したのが始まりで、当初は函館支社に所属し、軍納用の凍魚、塩干物、缶詰などの買い取りに当たった。業務拡大により出張所となり、1945年6月に豊原支社として独立、傘下に大泊出張所を配置し、鰊事業、魚函事業などに着手した。 こうした外地での事業活動により、取扱高は1943年の5,720万円から、翌1944年には約2億1,700万円と4倍近くに増加した(1945年の取扱高は不明)。外地での収益が全社のほぼ70%を占めていたのである。各期の営業報告書もこれを反映し、「尚外地ハ予期以上ノ成績ヲ以テ終始セリ」と記している。 また、外地事業に投じられた資産は、投資勘定を含めると総額3,640万円余に達していた。これは当時の資本金5,000万円の73%にあたり、また内地冷凍工場の総資産3,696万円余に匹敵した。 しかし終戦を迎えると、これらの資産、事業場はすべて接収され、約450名の社員とその家族には苦難の引き揚げが待っていた。24※10 帝国水産統制発足時の4月は「出張所」で、6月に「支所」となり、11月に「支社」に帝国水産統制ジャワ支社

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