ニチレイ75年史
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したときにはすでに戦局は悪化し、船舶の撃沈や石油、漁具、漁網などの枯渇が相次いだ。そのため、第1の事業である企業統制関係については、見るべき成果を収めることができずに終わっている。製氷、冷蔵、冷凍関係 事業の中心である製氷事業は、初年度は比較的順調に推移して凍氷96.4万t、1,224万円を販売したが、1944(昭和19)年に入ると資材や労働力不足から稼働率は30%に落ち込み、65.8万tの生産にとどまった。ただ、盛夏に向かって価格が倍近く引き上げられたことから売上高は1,419万円に上った。 冷蔵事業は、生産が急速に落ちていった事情を反映して、入荷量は1943年の1,513.2万延べトンをピークに減少した。これに伴い、保管収入も同年の712万円から翌年には628万円、1945年には651万円となった。凍結事業も、漁業生産の不振を凍菜や凍果などの農産加工で補ったものの、冷蔵事業と同様に減少を免れなかった。 事業が最も困難な事態に陥ったのは1944年11月以降で、都市無差別爆撃により、その日その日の工場防護対策や被災施設の後始末に追われる毎日だった。終戦までに、大都市、主要漁港を中心に92工場が被災し、延べ13万2,000㎡余を焼失したが、ことに製氷・冷蔵施設が被った痛手は大きく、製氷で43%、冷蔵で42%の施設を失っている。それでもなお160余の冷凍工場および水産品などの加工施設が戦禍を逃れたのは不幸中の幸いだった。水産物の買入及売渡関係 水産物の売買事業においては、海洋漁業統制各社から漁獲物や製品を買い受け、これを軍部や一般向けに供給し、初期には各地で活発な取引が行われた。1944(昭和19)年に入ると、冷凍工場網を活用して沿岸漁獲物、農産物、畜産物などの集荷、加工業務も積極的に行った。 また、帝国水産統制(株)が発足して間もない1943(昭和18)年7月、農林省から北洋産鰊鮭鱒類、水産物缶詰類(鮭鱒、蟹缶詰)などの配給統制機関に指定され、翌月には動物油脂(鯨油)の集荷機関に指定された。このための投融資活動は広範囲にわたり、投資会社、出資会社も多数に上った。 だが、戦局が厳しさを増すなか、操業は半ば麻痺状態に陥り、漁業生産力は急速に落ち込んでいった。とりわけ海外地における事業活動 1943(昭和18)年当時、日本水産は朝鮮半島および中国に3支社、9出張所、4事務所、8冷凍工場を擁し、朝鮮と華北・華中地域を中心に活動していた。帝国水産統制(株)は、これらの事業を引き継いで事業を拡充した。朝鮮半島および満州 朝鮮には京城支社があり、清津、元山、釜山、麗水の各水産基地を利用して、冷凍魚、塩干魚などとともに寒天、豆麺などを集荷生産し、朝鮮半島および満州(現 中国東北部)の軍需に振り向けた。主産地は清津と元山で、沿海州沿岸、東朝鮮沖一帯の豊かな漁場を抱えていたため、凍魚類を多量に生産して業績に寄与している。 もう一つの窓口が大連出張所で、本社との連携のもと、関東軍や満州重工業などに対する凍魚類の納入業務を行った。しかし1944年に入ると日本からの入荷が途絶え、6月ごろからは休止状態となった。華北・華中 華北地域では北京に支社を置き、天津・青島に出張所、済南、芝罘(現 煙台)に事務所を設置して、北京一円の軍納事業を中心に冷凍魚、塩干魚、畜肉などの一般取引を行った。冷凍工場は北京、済南、保定の3工場を自営したほか、和記洋行天津工場や東亜蛋業、大連製氷などの冷凍施設を利用した。なお、保定では冷凍魚の扱いのほかサイダー工場を経営し、サイダー、シロップを製造して軍需および一般の需要にも応えている。 1944年に入ると、人員・物資が逼迫して現地日本人の自洋漁業統制各社の被害は大きく、終戦までに撃沈された船舶は捕鯨船の45%、汽船式トロール船の78%、母船式漁船に至ってはそのすべてを失った。漁具・漁網など生産財の供給も1944年にはほとんど底をつき、石油などの燃料は戦前消費量のわずか8%が割り当てられたにすぎなかった。労働力不足も深刻で、沿岸漁業に携わるのは高齢者や女性だけという状態となり、さらに本土空襲が追い打ちをかけた。 こうした状況下で、帝国水産統制(株)の商品取扱高(国内分)は1943年の8,728万円から1944年は1億1,628万円、1945年は1億5,060.3万円と増加したが、これは沿岸漁業を中心とした農産水産物の集荷・加工事業の成果であった。23第2章 帝国水産統制株式会社の成立

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