ニチレイ75年史
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 参与理事 濱本喜三郎(陸軍中将) 市村久雄(海軍中将)青山憲三(全漁連) 安倍小次郎(日本水産)  監事 佐野 滋(日魯漁業) 田口耕平(三和銀行)  本社事務所は丸ビル4階に設けられたが、8部2室、40課におよぶ組織を収容するには手狭だったため、芝区田村町の日産館に第一分室を、京橋区明石町に第二分室を、さらに芝区内幸町に第三分室をそれぞれ設置した。本社事務所が分散したことや戦時下であることを考慮し、同社は開業式を行うことなく、4月1日付の社長通達をもって業務を開始した。この通達は「開業ニ関スル件」と題して、新会社が事業を始めるのに必要な各社との取り決め事項や業務運営の基本原則を明示したものだった。 なお、海洋漁業統制各社からの人員は総数3,582人(海上従業員を除く)に上り、その大多数は日本水産の従業員によって占められた。日魯漁業およびその系列下の太平洋漁業、北千島水産、北日本漁業が続き、林兼商店からは若干名が出向した。■資本および株主 帝国水産統制(株)の資本金は、水産統制令で5,000万円と定められた。出資は、会社設立に先立って発せられた農林大臣による日本水産、日魯漁業、大洋捕鯨(林兼商店系)の3社に対する船舶の出資命令に始まり、これを水産事業評価審査会に付して現物出資額を確定したのち、資本額に不足する分を現金出資額とし、各社の資本規模に応じて割り当てるという手順が取られた。帝国水産統制役員一覧 社長  副社長 眞藤慎太郎(日魯漁業) 専務理事 西村有作(日本水産) 理事 法などを具体的に詰め、1944年2月16日、正式な譲渡契約を締結した。日本水産は、248工場(ほかに2分工場)※6 と販売所29カ所を5,905万8,000円で譲渡。これは7カ年の分割という債務者特殊借入金をもって充てられた。工場数の減少は、台湾関係の事業場が南日本漁業統制株式会社※7 に移行したことによる。 対照的に、林兼商店との交渉は難航した。同社は、製氷冷蔵事業は漁業経営と不可分のものだとして譲渡に応じず、自社10工場のうち下関の3工場は西大洋漁業統制の直営として温存し、ほかの7工場を期限付きで帝国水産統制(株)に賃貸することになった。ただ、この7工場も帝国水産統制から再貸与の形をとり、差額金を帝国水産統制に支払うことで実質的には自社専用工場として使用した。水産販売事業についても、同様に水産物の取扱高に応じて一定の手数料を納付することで、帝国水産統制に介入させなかった。 3. 帝国水産統制株式会社の開業 有馬頼寧(伯爵/貴族院議員)林 準二(日本水産) 宮田彌治郎(林兼商店)横山勝事(日魯漁業) 家坂孝平(日魯漁業)白洲次郎(日本水産) 金子生一(日本水産)清 藤太郎(林兼商店)帝国水産統制社長 有馬頼寧21※6 「日本冷蔵株式会社二十五年の歩み」では240工場※7 南日本漁業統制株式会社;1944年2月、企業統制令に基づき、日本海洋漁業統制(株)の台湾営業所を根幹として、ほか10数社により設立された。第2章 帝国水産統制株式会社の成立■設立時の概要開業と役員構成 1943(昭和18)年4月1日の開業に向け、帝国水産統制(株)は本社事務所の開設や各社からの船舶、陸上施設、従業員の受け入れに続いて、組織・職制、役員の業務分担、幹部職員の人事調整など、事業運営の基礎固めに追われた。 役員人事においては、社長に元農林大臣で貴族院議員の有馬頼寧が起用され、副社長には日魯漁業副社長の眞藤慎太郎が就任した。また、時節を反映して陸海軍の将官各1人が参与理事に加わっている。から閉鎖まで

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