ニチレイ75年史
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■冷凍工場の買収 設立登記を完了した帝国水産統制(株)は、1943(昭和18)年4月1日の開業を目標に、各社と冷凍工場の買収や販売施設の譲り受け交渉にあたった。これらの設備は船舶と並んで帝国水産統制(株)の基本資産を構成するもので、もともとは政府が徴用して使用権を与えるか、あるいは現物出資に加えるべき性質のものだった。しかし国策会社設立に至るまでの交渉が難航したことから、まず会社を設立し、事業用資産は帝国水産統制(株)自体が買収しなくてはならなかった。 まず、最大の資産を有する日本水産との間で、1943年3月31日をもって冷凍事業および販売事業のすべてを現状のまま引き継ぐことで合意に達した。この合意事項を「日本海洋漁業統制株式会社ノ製氷冷蔵冷凍事業及販売事業ノ引継に関スル協定書」にまとめ、開業日である1943年4月1日に調印した。 その骨子は次の4点に要約できる。①日本海洋漁業統制株式会社(以下、日本海洋)は、1943年3月31日をもって、製氷冷蔵冷凍事業および販売事業を、付属する設備および権利とともに帝国水産統制に一括して引き継ぐ②製氷冷蔵冷凍事業に付随する設備および権利の対価は4,800万円とし、1943年以降7カ年に分割して支払う③日本海洋はその漁獲物と製品を当事者の協議する条件で帝国水産統制に売り渡す④日本海洋は冷凍事業および販売事業に従事する職員と従業員を1943年4月1日をもって帝国水産統制に引き継ぐ この協定書に基づき、帝国水産統制(株)は262工場(ほかに2分工場)※4 と39販売所※5 を従業員とともに引き継いで開業することになり、権利の細目および代金の支払い方表を招き、「帝国水産統制株式会社及び海洋漁業統制株式会社設立要領」について説明し、業界の了承を得た。そして同年9月8日、水産統制令第2条に基づいて帝国水産統制(株)の設立を命じるとともに、同令第39条によって北太平洋漁業統制株式会社、日本海洋漁業統制株式会社、西大洋漁業統制株式会社、日蘇漁業株式会社の4社の設立を命じた。この結果、帝国水産統制(株)は同年12月31日までに、ほかの海洋漁業統制会社は翌1943年3月31日までにそれぞれ設立することになった。 帝国水産統制(株)の設立には、日本水産、日魯漁業、林兼商店などの関係16社※3 、および三井物産、三菱商事、底曳網漁業の水産組合、鰹鮪釣漁業の水産組合が参加した。 海洋漁業統制会社である北太平洋漁業統制株式会社は、日魯漁業を主体に林兼商店の鱒定置漁場を統合し、母船式蟹漁業を除く北洋漁業の大半を傘下に収めた。ただ、日魯漁業が所有する鮭鱒漁業は日ソ漁業条約に基づく特殊な権益だったため、水産統制令にはよらずに企業整備令によって企業を合併し、最後まで日魯漁業の名前を残すことになった。 日本海洋漁業統制株式会社は日本水産の漁労部門を主体とし、これに子会社である日之出漁業、高砂漁業、共同漁業および株式の過半数を持っていた北洋捕鯨の5社を統合したものであった。 西大洋漁業統制株式会社は、日本国内における林兼商店の全漁労部門と同系統の大洋捕鯨、遠洋捕鯨を統合して設立された。 そして日蘇漁業株式会社は、日ソ漁業条約に基づく権益漁業を営むことを目的に日魯漁業を中心に設立されたが、これは名目的な存在だった。創立総会 統制会社の設立命令を受けた各社はただちに設立委員を選任し、1942年9月16日に農林大臣の認可を受けたのち、東京市芝区田村町の日産館内に事務所を設けて創立事務に着手した。設立委員は商法上の発起人に該当し、有馬頼寧(伯爵/貴族院議員)を委員長、眞藤慎太郎(北千島水産・北日本漁業)を副委員長に、以下、伊東猪六(林兼商店)、植木憲吉(日本水産)、田村啓三(日本水産)、中部謙吉第1部よりやす(林兼商店・大洋捕鯨)、西村有作(日本水産)、平塚常次郎(日魯漁業・太平洋漁業)、山地土佐太郎(極洋捕鯨・鮎川捕鯨)、渡辺藤作(日本蟹罐詰)の各委員で構成された。 こうして、12月6日の水産事業評価審査委員会による現物出資の評価完了をもって設立準備を完了し、同月23日、創立総会を開催した。翌24日に会社設立登記を済ませ、帝国水産統制株式会社の発足をみたのである。20※3 関係16社;日本水産、日魯漁業、林兼商店、太平洋水産、北千島水産、北日本漁業、大洋捕鯨、極洋捕鯨、北洋捕鯨、鮎川捕鯨、遠洋捕鯨、日本蟹罐詰、北洋蟹罐詰、日之出漁業、高砂漁業、共同漁業※4 「ニチレイ50年史」では262工場(ほかに2分工場)とあるが、「日本冷蔵株式会社二十五年の歩み」では254工場となっている。※5 「日本水産百年史」では、販売所の数は29カ所となっている。

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