ニチレイ75年史
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■水産統制令の公布水産新体制要綱 太平洋戦争が始まって間もない1941(昭和16)年12月19日、井野農相は農林省独自の構想に基づく水産新体制要綱を閣議に諮った。原案どおり閣議決定をみたのち、12月23日に開会した国家総動員審議会に「諮問第八十一号 水産ノ統制ニ関スル勅令案要綱」として諮問し、承認された。この要綱は国家総動員法を援用して強力な統制を前面に押し出しており、のちの水産統制令の実質的な柱となるものであった。しかし、業界の根強い反対や、企画院、大蔵省などとの事務折衝に手間取ったこともあり、実際に水産統制令が公布されたのは1942年5月20日であった。中部謙吉、極洋捕鯨の山地土佐太郎、太平洋漁業の原辰二、北千島水産の眞藤慎太郎、北日本漁業の西出孫左衛門、日本蟹罐詰の渡辺藤作、全漁連の野村貫一──を選出し、1941(昭和16)年8月23日、第1回の委員会に臨んだ。 しかし、自由競争を重んじる水産業界と政府は対立し、各社の立場や思惑の違いもあって、状況は複雑なものとなった。井野農相は、生産計画と資材配給、供給・販売を一括する統制会社を既存の水産各社の出資によって創設し、さらにその傘下に実際に漁獲を行う海洋漁業統制会社を1社設立する考えだった。だが委員会は、ほかの基幹産業と同様、既存会社はそのまま残し、その上部組織として産業別全国団体を設ける統制会方式を主張し、企業統合による国策会社設立を回避する姿勢を固めていた。 9月3日、日本水産、日魯漁業、林兼商店の代表者3人が井野農相を訪れ、業界側の最終案を提示した。案は、海洋漁業全体を日本水産、日魯漁業、林兼商店の資本ブロック別に統合し、これを基礎として統制会を結成し、業界の運営の一切をここに委ねるというもの。緊急事態にある現在、国策会社の新設はかえって事務を煩雑にし、水産業の生産性を低下させるというのが理由であった。 これに対して、井野農相は統制会を設置する意志はないとして、たとえ民間の協力が得られなくとも企業合同による国策会社を設立する旨を言明。両者は対立したまま物別れとなった。そして、井野農相は国家総動員法という強権を発動することになる。水産統制令 「資材、船舶等の綜合的能率的利用および重点主義による水産物の生産配分の計画化によって戦時下国民保健食糧の供給確保ならびに水産業の経営維持を図る」ことを目的とした水産統制令は4章63条から成る。第1章総則では国家総動員法に基づく戦時法規であることを定め、第2章と第3章で具体的な活動を規定し、第4章は雑則となっていた。 まず第2章では、海洋漁業の中央統制機関として資本金5,000万円の帝国水産統制株式会社を設立し、同社は各社が保有する船舶を現物出資ないしは戦時海運管理令の徴用規定によって一手に掌握するとともに、これを統制下にある各社に貸し付けるほか、水産物の売買、水産用資材の配給、製氷、冷蔵および冷凍その他事業を直接営むことを定めている。また第3章は、既存企業の合同によって海洋漁業の統制会社を設立し、帝国水産統制(株)から船舶その他水産用資材の供給を受けて、漁業生産にあたることが明示された。 この特別法によって水産統制の全容が明らかになったが、これは日本水産、日魯漁業、林兼商店の3社合同を意味していた。すなわち、船舶など主要生産手段と販売、購買の独占権を持つ帝国水産統制(株)と、その下に属するが、海洋漁業を一手に握る海洋漁業統制会社の2社という構想だった。水産各社が描いていた案は、全海洋漁業を資本ブロック別に統合し、その上に統制会を結成するというものだったことから、政府との議論の焦点は海洋漁業統制1社に合同させるか、資本ブロック別にするかという点に絞られた。1社合同案に強く反対したのは林兼商店で、日魯漁業、日本水産も強硬姿勢を見せた。そのため、農林省は満州重工業総裁の高碕達之助に水産業界との調整を依頼した。政府は同氏が取りまとめた妥協案を検討し、資本ブロック別に各社を統合することもやむを得ないという結論に至った。 紆余曲折を経て、海洋漁業の統制体制の要綱が固まったのは1942年8月だった。水産統制令は国家総動員法に基づく強権立法だったが、漁業資本の反対にあい、結果的には現状維持に近いブロック別の資本合同の形をとることになる。19第2章 帝国水産統制株式会社の成立2. 水産統制令 ~帝国水産統制株式会社の成立■帝国水産統制株式会社の設立設立命令 1942(昭和17)年8月、農林省は農相官邸に関係16社の代

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