ニチレイ75年史
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■戦時下における国家統制日中戦争と国家総動員法 1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋で起きた日中両軍の衝突をきっかけに日中戦争が始まった。そして、1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃に踏み切って太平洋戦争へと突入した。政府は経済を全面的に統制するため、金融面では臨時資金調整法を、物資面では輸出入品等臨時措置法を制定、また軍需工業動員法についても戦時規定を適用するなどしていった。 しかし、日中戦争は長期消耗戦の様相を呈した。より強力な国権が必要となって生まれたのが、1938年4月に公布された国家総動員法(5月に施行)である。この法律は、戦時に際して「国防目的達成」のため、あらゆる人的・物的資源を統制・運用する広範な権限を政府に与えたものだった。これに基づき、国民徴用令、生活必需物資統制令、価格等統制令、新聞紙掲載制限令などが勅令によって定められ、経済分野だけでなく、事業、文化、言論など、国民生活のすみずみまで国家統制が及ぶことになった。 1937年の生ゴムの統制、1938年の綿糸、ガソリン、重油の切符販売制は、経済統制の走りだったといえる。さらに1940年に砂糖やマッチ、地下足袋、ゴム靴、木炭、清酒などが配給制となり、1941年4月には米も通帳による配給制となった。太平洋戦争が起こると味噌や醤油、塩なども配給制となり、衣類や石鹸、煙草から野菜、魚などの生鮮食料品など、1943年末にはほとんどの生活物資が配給制となった※1 。 生活物資不足が深刻になるなか、氷が配給制となったのは1944年のことだった。国家総動員法に則って1938年に氷卸商の組合が組織され、それらをまとめる組合連合会が氷の引換券を発行した。■海洋漁業の国家統制をめぐる対立 水産各社の代表は、水産統制準備委員会において海洋漁業の統制体制の具体案を作成すべく、12人の委員会メンバー──日本水産の植木憲吉、蓑田静夫、日魯漁業の平塚常次郎、三宅発士郎、林兼商店の伊東猪六、大洋捕鯨の第1部れた。ろこうきょう水産業界の新体制構想 国家統制の影響は、当然ながら戦時食料を担う水産業にも及んだ。いわゆる水産新体制である。その背景には、次のような4つの理由・事情があった。①1939(昭和14)年の朝鮮産米の不作に端を発して、食料対策は国家的レベルで講じるべきという世論が台頭した②漁業の生産手段である漁網・漁具、さらには重油の供給不足が目立つようになり、操業が思うようにできなくなった③国際情勢が逼迫して缶詰の輸出市場が閉鎖状態となり、生産目標の転換を迫られた④戦争の拡大に伴い、海洋での自由な操業が事実上、困難になってきた 物資不足が目立つ中で、どのように食料を確保するかが大きな課題となっていたため、政府は、水産業を海洋漁業と沿岸漁業に分け、前者には国策会社を、後者には別個の統制機関を設け、それぞれを国家の統制下に置く構想を持ったのである。これは、石炭や鉄鋼、セメントなどの基幹産業が重要産業団体令(1941年8月公布)により、産業別に全国的な団体(統制会)を組織したのに対して、はるかに強力な統制方式だった。これを推進したのが、第2次近衛内哉※2 である。農相に就任して間もな閣の農林大臣、井野碩い8月16日、井野は水産業界の代表30人を官邸に招いて懇談会を開き、海洋漁業における統制の必要性を説いた。各社代表も臨戦態勢下にあって、その必要性を痛感していたことから、政府の意向を受け入れて水産統制準備委員会を設立することになる。ひろや18※1 参考;「国家総動員法と経済統制」奈良県立図書情報館※2 元日本水産専務だったが1940年8月に退任し、1941年6月に農林大臣に任命さ1. 戦時下での水産新体制 ~国策会社構想 第2章 1937(昭和12)年~1945(昭和20)年帝国水産統制株式会社の成立

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