ニチレイ75年史
43/320

「大日本製氷」は日本産業傘下で「日本食料工業」へ 1934(昭和9)年5月、合同水産工業は「日本食料工業株式会社」と社名を改め、大日本製氷をはじめ、帝国冷蔵、三陸水産冷蔵、昭和冷凍の各社を合併した。日本食料工業は、資本金1,520万円、直営の製氷冷蔵工場206、凍結工場39などを有する巨大な製氷・冷蔵会社となり、会長は鮎川義介、社長に伊吹震が就任した。 同年7月に、日本食料工業および共同漁業(株)※18 、日本捕鯨(旧 東洋捕鯨)は日本産業に吸収合併されるに至った。 1936年12月、日本食料工業は日本産業の事業経営機構改革により、事業分割を決議し、製氷、冷蔵、水産の3部門は共同漁業(株)に併合して、わが国最大の水産会社を設立することとなった。 翌1937年3月、共同漁業(株)は社名を「日本水産株式会社」に変更するとともに、日本食料工業を合併して同社の冷蔵部門とした。会長は鮎川義介、社長に田村啓三が就任。同社は日産コンツェルンの傘下会社として、資本金9,150万円、製氷、冷蔵、冷凍拠点は直営および投資会社を合わせて325工場となり、全国の製氷能力の50%、冷蔵能力においては60%を占めることになる。を持株会社に改組して「日本産業株式会社」に社名を変更、同社を日産コンツェルンの中核会社とした。しかし、投資総額の約70%を久原鉱業の事業を引き継いだ日本鉱業株式会社(現 JXホールディングス株式会社)に投下していたため、日本産業は日本鉱業の業績の影響を大きく受けることになった。そのため、鮎川は日本鉱業依存体質からの脱却と多角化戦略によるリスク分散に着手した。 鉱業の市場リスクと連動しない事業として浮上したのが、水産による食料工業であり、水産業で独占的な規模を誇っていた共同漁業(株)だった。1933年7月、鮎川は共同漁業(株)の会長に就任する。翌1934年6月、水産関係事業の統括を目的として日本産業に水産部を新設し、国司浩助を常務取締役水産部長とした。日本産業水産部は、傘下企業の拡充および統廃合を積極的に行ったのである。17※18 共同漁業(株)のトロール部門を以西底引網漁業を行う豊洋漁業に継承させるため、1934年6月に豊洋漁業の増資を行い、日本産業に吸収合併する際は、共同漁業(株)を豊洋漁業としたが、合併後、豊洋漁業を大洋漁業(株)に改称している。第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡

元のページ  ../index.html#43

このブックを見る