ニチレイ75年史
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水産株式会社」とした(今日の日本水産とは別のものであるため、ここでは旧山神組の名称を用いている)。旧山神組は、のちに共同漁業(株)と合併し、同社の投資部となった。 そして、共同漁業(株)は1929年12月、本拠地を下関から戸畑(現 北九州市)に移転。戸畑は漁業、製氷、冷蔵、冷凍、加工、流通、販売の各機能を備えた拠点となった。1933年7月に松崎社長が勇退し、田村市郎の養嗣子である田村啓三が跡を継ぎ、鮎介(通称ぎすけ)(1880~1967)が会長に就任した。1936年9月、日本合同工船や日本捕鯨などを吸収合併した共同漁業(株)は、翌年3月、後述する日本食料工業などを合併して「日本水産株式会社」と改称した。第1部あゆかわ川義よしすけ水産による食料工業を重視した日産コンツェルン 第一次世界大戦の戦争景気から世界恐慌(1929年10月)に至る激しい経済変動のなかで、明治末から大正期に誕生した新興財閥あるいは新興コンツェルンと呼ばれる一団は、既成財閥に比肩するほどに確固たる地位を築き上げていった。既成財閥が同族による資本所有を中心とした総合型企業集団だったのに対し、新興財閥は公開持株会社の形態を取った重化学工業を中心とする企業集団であり、新事業に果敢に挑戦した。 1927年に戸畑冷蔵の社長となった鮎川義介は、義兄のくはら久之助に代わって経営難に陥っていた久原鉱業の再建に取り組み、社長に就任する。1928年12月には久原鉱業業根拠地を下関から戸畑に移した1929年に、150tの製氷工場、100tの製氷能力に相当する冷蔵倉庫が相次いで稼働。それまで大日本製氷から水産氷を購入していた共同漁業(株)が戸畑冷蔵から調達するようになったことに加え、戸畑冷蔵が余剰生産分を外部に販売を始めたことから、大日本製氷は大きな打撃を受け、同社の収益は急速に落ち込んでいった。 1932年5月、戸畑冷蔵は「合同水産工業株式会社」(資本金350万円)と社名変更し、中央冷蔵と日本漁糧を吸収合併して冷蔵冷凍事業を加える。企業買収によって冷蔵倉庫網を充実させようと構想した国司浩助は、翌1933年に当時企業体力の弱っていた大日本製氷に対して合併交渉を行った。これは合意に至らなかったが、1934年3月、大日本製氷は臨時総会で合併案を可決することになる。原房ふさのすけ16■漁業資本各社、製氷・冷蔵会社を傘下に製氷・冷蔵会社の買収、新設 1920年代初めの製氷・冷蔵業者には、日東製氷(大日本製氷)と帝国冷蔵のように、明治中期から発達してきた機械製氷と保管用冷蔵倉庫を主要業務とする従来の製氷・冷蔵業者、それに葛原冷蔵と氷室組のように、1910年代後半に台頭した食品を直接凍結する冷蔵業者があった。しかし、葛原冷蔵と氷室組は1920年代半ばに経営に失敗、大日本製氷と帝国冷蔵も1920年代後半から経営状態は悪化し、資本制漁業企業に吸収されることになる。その背景には、資本制漁業企業が相次いで製氷・冷蔵設備を導入し、製氷・冷蔵各社に大きな打撃を与えたことがある。 1923(大正12)年、林兼商店は彦島冷蔵庫の建造を開始し、漁業と水産加工基地として利用するとともに、林兼商店所属の各漁業根拠地に製氷・冷蔵設備を増設していった。一方、輸送手段として、1922年から小型の冷蔵運搬船を次々に建造した。日魯漁業は、1926年から経営難に陥っていた氷室組と葛原冷蔵の冷蔵倉庫と大型冷凍運搬船の買収に着手し、1927・1928年に連続して大規模投資を行い、独自の冷凍加工・運輸ネットワークを構築した。 共同漁業(株)は、漁獲物の価値を高める手段として冷蔵技術の革新が必要だと認識し、1927(昭和2)年6月、氷室組から大林組に引き継いだ中央冷蔵庫を分離・独立させて「中央冷蔵株式会社」を設立、冷蔵倉庫の直営事業を開始した。同年12月には「戸畑冷蔵株式会社」を新設し、鮎川義介が社長に就任する。戸畑冷蔵では、共同漁業(株)が漁column明治後期から昭和初期の冷凍食品開発 日本における食品の冷凍は、明治後期から大正期の水産物に始まり、畜産物が続いたが、農産物については、1930(昭和5)年、戸畑冷蔵が開発した「苺の冷凍方法」が特許を得たのがひとつのきっかけとなった。1932年には「イチゴ・シャーベー」(つぶしたイチゴに砂糖を加え、ブリキ缶に詰め、容器のまま凍結したもの)を販売し、好評を博した。 冷凍野菜は主に軍納用あるいは船舶の食料として開発が進み、その種類が増えるとともに、凍結した野菜は「凍菜」と呼ばれるようになった。 また、凍結卵液は1932年、凍結チキン、ブロイラーは1933年に英国へ輸出している。豚肉専用の冷凍工場を宮城県白石に設置したのは1938年だった。 1935年から1937年には、日本食料工業が包装した冷凍食品として「家庭凍魚」を市販したが、間もなく戦時体制に入ったこともあって長続きしなかったという。

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