ニチレイ75年史
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水産業界小史~日本水産を中心に ここで、「共同漁業(のちの日本水産)」「林兼商店(のちの大洋漁業/現 マルハニチロ)」「日魯漁業」の3大資本制漁業企業を中心に、水産業界の合従連衡について簡単にまとめておきたい。 林兼商店は、1880(明治13)年、中次郎(1866~1946)が播磨国明石東魚町(現 兵庫県明石市)で家業の鮮魚仲買運搬業を継いだことに始まる。中部は、当時、鮮魚の運搬は帆船がほとんどだったなか、蒸気船を使って成功した。1924(大正13)年、「株式会社林兼商店」を設立すると、翌会議に日本代表として出席し、帰国後は日本冷凍協会設立に尽力した。 なお、1925年6月には「漁業共同施設奨励規則」が、翌年には「乳肉卵共同処理奨励規則」が公布されている。 このように政府が冷蔵設備に多額の奨励金を交付した背景には、将来の食料供給への不安があった。第一次世界大戦後の欧州は深刻な食料難に陥っており、日本でも大戦中に起きた激しいインフレが都市化に伴う食料供給問題を誘発。人口増とあいまって、食料の供給体制の再構築が急がれたのである。 1925年9月には冷凍事業の普及発達、冷凍に関する学理技術の向上を目指して、日本冷凍協会(現 公益社団法人日本冷凍空調学会)が発足し、初代会長に和合英太郎(当時、日東製氷社長)が就任した。その創立にあたって英太郎は、日本が自給自足していくのは不可能であり、外国からの食料輸入や国産食料の需給調整に寄与する冷凍事業が食料問題解決の鍵になるとした。 さまざまな助成により、中小の製氷・冷蔵会社の創業ブームが起こった。さらに各漁業組合も製氷・冷蔵設備を建設するなどして、製氷と冷蔵の社会的な認知度を高めることになった。一方で競争は激しさを増したため、1936(昭和11)年に全国冷蔵組合連合会が設立され、適正保管料の維持が図られた。また、倉庫業者の増加に伴い、保管設備や運営方法に問題のある業者も少なくなかった。そのため、監督・取締に関する「倉庫業法」が1935年に公布され、初めは普通倉庫のみが対象だったが、1937年からは冷蔵倉庫にも適用されるようになった。がっしょうれんこういくじろうなかべ部幾年、拠点を下関に移し、1936(昭和11)年に南氷洋捕鯨を開始。同社は水産業の関連業種を同系列に置いて運営することを方針として、造船から水産物の冷蔵保存工場まで運営することになる。たむら 一方、日本水産の歴史は、1911(明治44)年5月、田村いちろう郎※16 (1866~1951)が「田村汽船漁業部」を下関に設立市し、トロール漁業に着手したことから始まった。田村は、それより3年前の1908年、近代捕鯨の先駆者である岡十郎と共同で汽船トロール漁業に乗り出していた。国産の船では成績が上がらなかったため、国助(1887~1938)をトロール漁業の先進国英国に派遣。トロール汽船の造船監督にあたらせ、汽船の完成・到着を待っての創業となった。 田村汽船漁業部は、国司という優れた人材を得て急速に発展し、1919(大正8)年5月、株式会社に組織変更するとともに、「日本トロール株式会社」と改称。次いで9月に「共同漁業株式会社※17 」に同社を吸収合併させて改組している。吸収合併という形をとったのは、共同漁業(株)のほうが知名度も高く、起業許可申請に有利という事情があっまつざきた。社長には元農務省水産局長で旧山神組社長の松崎としぞう寿三を迎え、常務取締役に国司と旧共同漁業の林田甚八が就任している。田村汽船漁業部の7隻と旧共同漁業の18隻を合わせて25隻を保有した共同漁業(株)は、日本のトロール漁業で最大規模となった。 田村はまた、1907(明治40)年に日露漁業協定が結ばれたことを機に、北洋漁業に乗り出している。樺太でニシン漁を行ってきた米林伊三郎と協力して「一井組」を興し、その経営を中山説太郎に任せた。このとき、のちに蟹工船事業で日本水産を支えることになる植木憲吉を得ている。一井組は1914年3月に「日魯漁業株式会社」に改め、田村が社長に、中山は専務に就任した。しかし1916年12月には、大阪の株仲買人、島徳蔵からの申し入れにより日魯漁業を売却し、田村は北洋漁業から撤退した。 一井組が興ったのと同じころ、魚問屋や漁業者らにより下関で創設された「山神組」は、朝鮮半島での売魚に力を持っていた。田村は漁獲物の流通・販売網を得るため、北洋漁業から手を引いた際に得た船舶の売却益をもって1917年3月に出資し、さらに同年6月、旧山神組は名称を「日本くにしこうすけ司浩15※16 田村市郎は、久原鉱業および日立製作所の創始者で、のちに立憲政友会総裁となる久原房之助の兄にあたる。※17 共同漁業は、1914年11月、中小の11経営体が参加し、いわば企業合同による経営強化策として設立された会社である。しかし、苦しい経営を強いられ、1916年度には会社解散を決議し、田村汽船漁業部が取得に乗り出していた。第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡

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