ニチレイ75年史
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から売り出されていたというが、毎日、氷を買って補充する必要があったため、日本の家庭で使われ始めたのは明治の末ごろからで、都市部で普及していったのは大正期だった。 なお1898(明治31)年には、家庭用の氷冷蔵庫に関する記載が登場している。後閑菊野と佐方鎭子の共著である『家事教科書』(成美堂・目黒書房合梓)に、「食品貯蔵に便利なる氷箱を購い肉片を白き麻布に包みて此中に入れ」と記された。 また、1908年6月9日の「東京日日新聞」には岩谷商会の広告が掲載され、「今回東京京橋区銀座通り岩谷商會にて発賣したる『廿世紀冷蔵器』は、在来の冷蔵器に比し食品の冷却さるる事最も速やかにして、且つ如何なる食品を同時に入るるも決して臭気を混ずる等の事なく、家庭用、営業用、携帯用、装飾用、氷冷却器、運搬用等の六種あり」とある。 「毎年夏の初めに、多くの焼芋屋が俄然として氷水屋に変化する」とは、1909年に新聞に連載された、夏目漱石の『それから』の一節である。甘藷類販売と季節によって商売を兼ねていた氷水屋は多かった。 明治期には、ビールの中にブッカキ(砕いた氷)を入れるなど、氷は飲み物を直接冷たくするために用いられていた。やがて製氷工場が増えるにつれて、氷は飲み物を瓶ごと冷やすために用いられるようになった。大正期、鮮魚を含めた飲食料品を貯蔵することが増え、氷の用途は、飲料用3割に対して、冷蔵用7割に高まっている。町中、氷の販売店の店頭で氷を切り分けるさまは、夏の風物詩となった。第1部の利用」より次々に打ち出された水産冷蔵奨励政策 流通分野でも鮮度と衛生上の観点から氷の必要性が認められるようになるなか、1923(大正12)年3月、「中央卸売市場法」が施行され、公設市場に冷蔵施設の設置が義務づけられた。同年5月には「水産冷蔵奨励規則」が制定され、冷蔵庫、冷蔵運搬船などの普及・拡充が図られる。1923年4月からの4年間で221万円を支出し、冷蔵運搬船11隻、冷蔵庫69庫、貯氷庫62庫に奨励金が交付された。さらに、1933(昭和8)年ごろからカツオ、マグロ漁やトロール船による遠洋漁業が発達し、漁獲物保管の冷蔵庫や製氷施設を各漁港に備えるようになったため、奨励規則は1937年まで継続され、冷力利用事業の発展を促した。ちなみに、この奨励策を立案した水産局の農村技師、宮田弥治郎は、1924年にロンドンで開催された第4回国際冷凍14※15 水産庁「平成29年度水産白書 第1部 特集 水産業に関する技術の発展とそ木製氷冷蔵庫生鮮食品を冷やすと同時に、湿度が保たれるという点で機能性に優れていた。4. 製氷・冷蔵業と水産業■水産工業化資本制漁業企業の急成長 四方を海に囲まれた日本では、古くから水産物を摂取し、時代の変化とともに漁業を発展させてきた。明治政府は新しい技術の開発による水産業の振興を課題のひとつに掲げてきたが、大正期から昭和初期にかけてその政策が実を結んだ。漁網を製造する機械技術がほぼ整って網具の大型化・強度化が進むと、漁船の大型化も進行。漁船内で水産物を冷凍保存できる技術が発達すると、遠洋での操業も可能になった。漁船に初めてディーゼル機関が装備され、電気式集魚灯、無線装置なども搭載された。また、漁船の大型化などに応じた漁港の大規模化も進展した※15 。 一方、第一次世界大戦中に起きた激しいインフレによって、都市化・人口増に伴う食料品の供給体制の再構築が社会的課題となっていた。これに対応して、冷凍・冷蔵技術の開発・利用が水産物の製造、貯蔵、流通に革命的な変化をもたらし、1920年代の初期に資本制漁業企業が急速な成長を遂げる。すなわち冷凍・冷蔵の技術が、従来の中小事業体による小規模な漁労と売魚から、大規模な漁労、加工、流通などの全過程を有する水産業の工業化に大きく寄与したのである。それがのちの総合食品メーカーへの成長につながっていった。

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