ニチレイ75年史
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も着目したのは、欧米歴訪の成果であった。「(前略)諸君も知る如く我が製氷界は、去る大正九年頃より全国各地に製氷工場乱設せられ、生産過剰は年と共に其の度を増し、今や生産設備、経済的運転設備に於て供給力は需要の優に二倍を有するに至り、従つて此れが市場は連年殆んど競争濫賣に終始し、全国二百余会社中、株主配当を持続し得たるもの、龍紋・日東を除きて僅かに十指の内に数へらるゝに至れり。(中略) 今や氷界に対する二重投資、及び彼我両社対立の不利を避け、会社の健全なる発達と株主社員の一層の幸福の為に、日東製氷株式会社と合併の敢行を宣するものなり(後略)」(『京都氷業史』より)業界再編による「大日本製氷」の誕生 1928(昭和3)年5月、日東製氷は、さらに製氷業界のもう一方の雄であった龍紋氷室を合併した。同年9月に社名を「大日本製氷株式会社」と改め、和合英太郎が取締役社長に就任。同社は資本金3,586万6,800円の日本で最大の製氷・冷蔵会社となり、その生産能力は全国の過半数を占めたのである。 長く関西の雄であった龍紋氷室が、なぜ合併に踏み切ったのか。それは龍紋氷室社長の山田啓之助の「龍紋氷室社員諸君に告ぐ」と題した挨拶の中にみることができる。明治から大正期の人々の暮らしと氷 製氷の技術は、人々に「冷たいおいしさ」をもたらし、それを利用した低温貯蔵の技術は、さまざまな地方の生鮮食品を食卓に届けることを可能にした。 現在の家庭用電気冷蔵庫が普及する前は、氷冷蔵庫が一般的だった。最初は「氷箱」と呼ばれていたが、次第に「冷蔵箱」「冷蔵器」「冷蔵庫」「氷冷蔵庫」「アイスボックス」などと呼ばれるようになった。この氷冷蔵庫は明治初年 合併によって大日本製氷の直営工場数は161を数え、1日の能力は製氷5,488t、冷蔵1,459tとなり、同業53社に多額の出資を行ってもいた。日本における製氷業界全体の工場数は550、1日の製氷能力は約1万tとされていたから、いかに同社の規模が大きかったかがわかる。だが、合併による工場と設備の重複が、その後の大日本製氷の経営に悪影響を与えることにもなった。 英太郎は東京製氷を合併して1907(明治40)年に日本製氷を設立して以降、1933(昭和8)年に病気で大日本製氷の社長を辞任するまでに、合併した会社の数は80、出資した会社の数は60におよび、中川嘉兵衛と並んで日本の製氷業に多大な貢献をした人であった。 しかし、大規模合併して誕生した大日本製氷が製氷業界をリードした時代は長くは続かなかった。時代は製氷技術から冷蔵技術に軸足を移し始め、製氷企業は徐々に冷蔵企業に買収されるようになる。飾麿製氷株式会社(1924・5合併)…他13社帝国製氷株式会社(1923・1合併)…他3社合名会社城島製氷所(1922・2合併)九州製氷株式会社(1922・7合併)佐世保製氷株式会社(1921・6合併)…他4社菱華製氷株式会社(1920・6合併)土佐製氷株式会社(1919・10合併)…他2社(1919・6設立)新高製氷株式会社(1919・1合併)山田製氷株式会社(1918・2合併)…他2社西尾製氷株式会社(1917・8合併)…他3社関門製氷株式会社(1913合併)…他8社和歌山製氷株式会社(1917・2合併)…他6社焼津製氷株式会社(1915・12合併)静岡製氷株式会社(1912・1合併)大阪製氷株式会社(1912・1合併)小田原製氷株式会社(1916・7合併)…他9社(1907・5設立)(1897設立)(1883設立)13日東製氷株式会社日本製氷株式会社東洋製氷株式会社東洋製氷株式会社(1911・12設立)機械製氷株式会社東京製氷株式会社第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡日本製氷株式会社

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